諸葛誕
諸葛 誕(しょかつ たん、? - 258年2月)は、中国の三国時代の魏に仕えた政治家・武将。字は公休(こうきゅう)。子に諸葛靚。孫に諸葛恢、諸葛頤。
生涯[編集]
徐州琅邪郡陽都県の出身。呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮兄弟の同族で族弟(同族の弟の世代)である[1]。諸葛誕の伝記は陳寿が著した正史・三国志の『魏書』巻28にある。陳寿の記録から諸葛一族であることは間違いないが、『世説新語』で諸葛瑾・亮兄弟の「従弟」とされている点に関しては疑問が持たれている。
諸葛誕は生まれた時点で曹操支配下の領土であり、自然の成り行きで魏に仕官したと推測される[2]。初めは滎陽県(現在の河南省鄭州市北西)の令(長官)となった[2]。ここは首都の洛陽に近いため、任官についてはまずまずの地方官の地位に就いたと言える[2]。その後間もなくして中央に召喚され、吏部朗(下級官吏の人事担当官)となる[2]。この官職は人事権を握っているためかなりの権力があり、諸葛誕は情実による人事を排除して大いに手腕を発揮し、御史中丞(管理の不正を検察する御史台の次官)、尚書(尚書省の局長)に栄進した[2]。このように順調な出世コースを歩みだした諸葛誕であったが栄進すれば妬まれるのも当然のことで、諸葛誕が夏侯玄と親しくして才子グループを結成したことを才をひけらかして軽薄だと当時の皇帝である明帝に讒言する者が現れた[2]。明帝もこのグループを嫌い、諸葛誕は免職とされてしまった[2][3]。
239年1月に明帝が崩御すると、諸葛誕は元の官職に復帰を許され、241年には対呉戦線の最高責任者である揚州刺史に任命された[3]。
249年に正始の変と称されるクーデターを起こした司馬懿が政権を掌握し、251年に王淩が反乱を起こした際には(王淩の乱)、司馬懿に協力して鎮圧に貢献したため、鎮東将軍・都督揚州諸軍事に任命される[4]。司馬懿の死後に嫡子の司馬師が跡を継ぐと、諸葛誕は彼に従い、252年に同族の諸葛恪との戦いである東興の戦いに出陣したが撃破され、その敗戦の罪により鎮南将軍・都督豫州諸軍事(豫州方面軍総司令官)に転任となった[5]。254年、司馬師が親交の深かった夏侯玄をクーデター計画に関与したとして殺害する[4](嘉平の変)。すると255年には諸葛誕の後任の揚州諸軍事である毌丘倹と文欽らが反乱を起こした[5]。諸葛誕は夏侯玄を通じて毌丘倹と親しかったため、使者が送られて反乱に同調するように求められるが、実は文欽とはかなり不仲だったため身の潔白の証を立てるために使者を切り捨てて、司馬師と共に反乱鎮圧に貢献した[5](毌丘倹・文欽の乱)。この功により再び揚州諸軍事に任命される[5]。その後、呉に逃れた文欽が孫峻と共に寿春を襲撃するが撃退し、この功により征東大将軍に昇進した[5]。
しかし255年に司馬師が死去して弟の司馬昭が跡を継ぐとおかしくなりだした。諸葛誕の地位は司馬昭に決して劣るものではなくむしろ匹敵するものであり、彼は司馬昭から警戒されることを恐れた。また親しかった夏侯玄や毌丘倹らが殺されたのを見て孤立を深め、不安を抱きだした。そのため自衛手段を講じるために命知らずの遊侠の徒を数千人集めたり、中央に対して呉に備えることを理由にして10万の兵力を派遣するよう要請したりした[6]。司馬昭は諸葛誕に強大な兵力を預けておくのを危険と判断し、洛陽に召喚する命令を下した[6]。これに対して諸葛誕は兵力を失ったら誅殺されると考え、257年5月に遂に挙兵した[6](諸葛誕の乱)。
諸葛誕は15万の兵士と1年分の食糧をかき集め、寿春の防備を固め、さらに末子の諸葛靚を呉に人質として差し出して支援を依頼した[6]。これに対して司馬昭は皇帝の曹髦を擁して26万の大軍で寿春討伐に赴いた[6]。この籠城戦は半年続いたが、その間に援軍に来た呉軍は完全包囲する魏軍に撃退され、包囲される前に援軍として入っていた文欽との不仲も再燃して対立が激化し、258年1月に諸葛誕は文欽を殺害してしまった[6]。この内紛により防備が衰えたため、2月に司馬昭は総攻撃をかけて寿春を遂に陥落させた[6]。諸葛誕は逃亡しようとしたが、乱戦の中で魏軍により惨殺された[6]。
この反乱鎮圧により司馬昭の権力は完全に確立。以後、司馬昭に逆らう者はおらず、これが西晋誕生への布石となった。
人物像[編集]
『世説新語』品藻篇では当時の世評で「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」とある。龍は諸葛亮、虎は諸葛瑾、そして犬が諸葛誕である。つまり諸葛瑾や諸葛亮に較べて劣る人物と評されている(ただし狗には熊の子を意とする説もある)。また、夏侯玄と同等の名声を魏で得ていたとある。
一方で寿春が陥落して数百人にのぼる諸葛誕配下の兵士が司馬昭に降伏を求められた際、兵士らは降伏を拒否して潔く斬刑を受けたといわれるが、その際に「諸葛公のために死ぬのだから心残りはない」と述べたとされており、部下からかなり人望が厚かったことがわかる一例である。