赤壁の戦い

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赤壁の戦い(せきへきのたたかい)とは、208年12月に発生した曹操軍と劉備孫権軍の戦いである。『三国志』において最大の戦いと言われる戦いであり、曹操が敗れたことで中国大陸が曹操・孫権・劉備の3名によって分裂することがほぼ確実になったことで非常に重要な戦いである。

概要[編集]

前段階[編集]

200年官渡の戦いに勝利した曹操は、その2年後の袁紹の死去により分裂した袁氏勢力に侵攻し、207年に袁紹の3男・袁尚を討った。これにより、河北はほぼ曹操の支配下に入ることになった。

天下統一を目指す曹操にとって、次の標的は南の荊州牧・劉表揚州の孫権であった。曹操は208年に大軍を率いて南下を開始する。ところがこの南下の最中である8月に、劉表は病死した。劉表の跡目は息子の劉琮が継いだが、彼は家臣の蔡瑁蒯越傅巽韓嵩王粲らの進言もあって曹操に降伏する。

曹操に追われて劉表の客将として荊州新野にあった劉備は、劉琮の降伏を知ると直ちに新野を放棄して南に逃走する。一方、劉表の死去を知った孫権陣営でも重臣の魯粛が「劉備と劉表の子らが心を合わせて上下まとまっているならば同盟を結んで曹操に対抗し、仲違いしているなら乗っ取って大事業の足がかりにしましょう」と進言し、まずは様子を見に行くとして劉表の子らのもとに弔問へ赴くことにした。しかし、魯粛が荊州に到着する前に劉琮は曹操に降伏したので、魯粛は予定を変えて逃走する劉備と会見した。魯粛と劉備の会見は当陽(『呉書』)、夏口(『蜀書』)と史書により分かれている。

会見で魯粛は劉備に孫権との同盟を提案する。また、この頃に劉備の重臣となっていた諸葛亮も説得して友の交わりを結んでいる。この時点で、劉備には関羽率いる船団と、江夏郡太守劉琦の軍勢1万ほどがあり、決して無視できる戦力ではなかった。とはいえ、曹操の大軍に独力で対抗できるはずもなく、そこに来た魯粛の同盟話は渡りに船であり、劉備は直ちに承諾し、ここに劉備・孫権連合軍が成立する。

この際、魯粛は諸葛亮を伴って孫権の下に帰還した。当時の孫権の拠点は紫桑であり、ここでは魯粛の留守中から曹操の荊州平定を受けて、重臣による激論が交わされていた。重臣の張昭は孫権に対し「孫将軍の事業は上は漢の皇室の守護者となり、下は万民を養い育てることのはず。三国分立の計は無用。献帝の正義を背景とした曹公(曹操)が今、荊楚の平定に向かったのは、中華の地を統一する好機であり、直ちに迎え入れるべきである」と曹操への恭順論を説いていた。大半の重臣が張昭の恭順論に傾いており、孫権も決戦か恭順かで態度を決めかねていたという。孫権の下に戻ってきた魯粛は断固決戦を主張し、孫権を諸葛亮と引き合わせた。ところがここで、諸葛亮は孫権に曹操への投降を勧め出した。訝しく思った孫権は諸葛亮に「なぜ劉備は曹操に降伏しないのか」と理由を尋ねると「劉豫州(劉備)は皇族にして天下の英才であり、多くの士が敬慕を受けること、川が海に帰するがごとし。事が成し遂げられぬのは天命ですが、どうして膝を屈することができましょうか」と孫権の自尊心をくすぐる発言をした。孫権は色をなして決戦を心に決める。

ところがここで、曹操から恭順を求める使者が孫権の下を訪れる。これを受けて孫権の決心は再び揺らぎ、張昭らの恭順論が強くなった。ここで再度、孫権に諫言したのが魯粛であり「もし家臣が曹操に降伏しても重く用いられるでしょう。しかし貴方は降伏しても身分は保ち得ない」と述べた。さらに重臣で孫権軍の最高責任者である周瑜が任地の鄱陽からやって来ると状況は一変する。周瑜は「曹操の率いる北方の騎馬軍団は呉越の者と水軍で互角の勝負ができるはずがない。また、慣れない南方の土地で長く対陣していれば、将兵が疫病に倒れるのは必定で、勝機は充分にある」と決戦論を述べた。恭順派がそれに反対すると、周瑜は「地の利、時の利が味方にある。曹操軍は80万と言われるが虚言もいいところで、精々20万。しかも大半はやる気の無い降伏したばかりの荊州兵であり、勝機は充分にある」と述べた。これを受けて孫権は決心して自らの刀を抜くや、机の角を切り落として決戦することを命じ、周瑜・魯粛・程普らに3万の軍勢を与えて曹操軍を迎撃することにした。

こうして、赤壁の戦いの舞台が整ったのである。

赤壁の戦い[編集]

曹操は208年9月、長坂の戦いで南下して逃走する劉備軍を破る。さらに軍需物資が集積されていた江陵を押さえて荊州の人心収攬に務めると、劉備を追撃して孫権を討伐するため、大軍を率いて長江を東に下った。

曹操軍と孫権・劉備連合軍が遭遇したのは、長江両岸の岩が赤いことから赤壁と言われていた現在の湖北省咸寧市赤壁市である。実は当時は「南船北馬」と言われていた。南の軍隊は船、すなわち水上での戦闘に非常に強く、北の軍隊は騎馬隊、すなわち陸戦で非常に強いという意味である。このときの両軍の兵力であるが、曹操軍が20万から25万ほど、孫権・劉備連合軍が4万から5万ほどであったのではないかと見られている。

ただし、この数の差は曹操軍は陸戦でなら生かせるが、水上戦闘では生かせるわけが無かった。曹操軍の水軍の主力を成していたのは旧劉表軍の将兵であり、降伏したばかりで戦意も低ければ忠誠心も乏しい。しかも劉表軍は劉表存命中から孫権軍と戦って敗れてきた水軍である。そのため、水上戦闘を得意としている孫権軍の敵ではなく、曹操軍は敗れて北岸に退くことを余儀なくされ、長江を挟んで曹操軍と孫権軍はにらみ合うことを余儀なくされた。

そしてこの頃から曹操軍に新たな問題が発生していた。南方の湿潤な気候や水が北方出身の将兵には合わず、また船酔いもあり、疫病が軍内で大流行しだしたのである。このため、曹操軍は動くに動けなくなったが、とはいえ25万と5万では数の差がありすぎ、孫権軍も曹操軍を一気に破る打開策が見出せずにいた。このような中で曹操は水に熱を通したり、船酔いを避けるために船団に密集隊形を取らせる作戦を採用する。ところが、これを見た呉軍の黄蓋は周瑜に対して火攻めを献策。この策略は採用され、黄蓋は曹操に降伏を申し入れると、自ら引火物を満載にした船団を率いて曹操の水軍に接近して一斉に火を放った。これにより曹操軍は大混乱となり、その混乱の最中で孫権軍・劉備軍共に総攻撃に移り、曹操は敗北して陸路から江陵を目指して敗走した。

敗走した曹操は軍を率いて華容道から徒歩で帰還したという。『山陽公載記』によると、曹操は敗走中に泥沼にぶつかり道が通じず、また大風が吹いたので、弱兵に草を背負わせて泥沼を埋めさせ、騎馬兵はその弱兵を踏みつけて通過したという。当然、人馬に踏みつけられた弱兵は多くが死んだといわれる。しかし、軍が泥沼を抜け出すと曹操はこれをとても喜んだので、部下がその理由を尋ねると「劉備はわしとよく似たような奴だが、計を思いつくのが少し遅い。先に速やかに火を放っていたなら、我々は全滅していただろう」と述べたという。間もなく劉備は火を放ったが、既に手遅れだった。

戦後[編集]

孫権[編集]

江陵まで逃げ延びた曹操は、重臣の曹仁に江陵城の守備を任せると、北方に撤退した。周瑜は程普と共に曹操を追撃し、南郡まで軍を進めると曹仁と戦い、部下の甘寧に夷陵を占領させた。以後、周瑜は程普・甘寧・呂蒙凌統らを率いて曹仁と戦い、周瑜が左鎖骨に流れ矢を受けて重傷を負うアクシデントもあったが、1年以上にわたる攻防戦の末、曹仁は敗走して江陵は孫権の支配下に入った(『周瑜伝』)。この勝利で孫権軍は勢いづき、孫権は自ら軍を率いて合肥を包囲攻撃する。しかし1ヶ月の攻防でも攻め落とせず、曹操の派遣した援軍が到着する前に撤退した(『呉主伝』)。また孫権は再度、合肥を10万の大軍を率いて攻撃する。当時、曹操が任命した揚州刺史の劉馥は既に死去していたが、劉馥が生前に施した城の備えにより城民は結束して孫権軍に抵抗したため、遂に孫権軍は撤退することになる(『劉馥伝』)。

劉備[編集]

劉備は曹操を南郡まで追撃した後、献帝に上奏して劉表の子・劉琦を荊州刺史として擁立し、さらに荊州南部(長沙零陵桂陽武陵)を制圧する。制圧した頃に劉琦が病死し、劉備は後任の荊州刺史に就任し、ここに徐州以来、劉備は群雄として割拠する領土を手に入れることになった(『先主伝』)。

曹操[編集]

曹操軍は赤壁の戦いで敗れたものの、有力な武将は失っておらず、また兵力も温存されていたものと思われる。江陵から北方まで撤退した曹操は209年3月には早くも水軍の調練を開始しており、7月には合肥に向けて進軍している。そしてこの地において赤壁での戦没者遺族を保護する旨の布告を発し、揚州の人事を定めて屯田を開設するなど、孫権に対する備えを万全にしている(『武帝紀』)。

影響[編集]

赤壁の戦いは曹操が9割方勝利すると思われていただけに、その敗戦は衝撃的であった。そして勝利した孫権と劉備は領土を拡大し、特に劉備は地盤を手に入れて群雄として割拠することができるようになった。これにより、三国時代、すなわち曹操の、孫権の、劉備のが鼎立する幕が開けることになったのである。

曹操はこの敗戦により、天下取りの戦略の練り直しを余儀なくされた。赤壁で勝利していれば、それをもって蜀の劉璋を降して天下を統一したものと思われるが、その戦略はこの赤壁の敗戦で破綻した。以後、曹操は武力による天下統一から、かつて前漢を内部から簒奪した王莽のやり方に舵を切り替えることになる。

三国志演義[編集]

三国志演義』において赤壁の戦いは、龐統による連環の計に曹操が引っかかって船団を鎖で数珠繋ぎにしたり、そこを黄蓋の偽投降による火攻めで船団を焼かれてしまったりしている。なお、演義では諸葛亮の智謀の凄さを見せ付けるために、火攻めの際に必要な東南の風を吹かせるように諸葛亮が祈りを捧げたり、周瑜にその智謀を危険視されて無理難題を押し付けられるが、そのたびに見事な智謀を見せて全て切り抜けたりして、逆に孫権陣営の諸将に自身に対する恐怖を植え付けるなど、脚色が加えられている。

華容道から曹操が逃げることも諸葛亮は見抜いており、曹操を討つ役目を関羽に命じる。これはかつての官渡の戦いで関羽が曹操に恩義を受けており、その借りを返させるためだった。関羽はみじめに敗走する曹操を見て以前の恩義もあって見逃す。後にこれが問題になって関羽は斬首されかけるが、劉備の嘆願で助命されている。

また、曹操は周瑜を味方につくよう説得させるために部下の蒋幹を送っている。これは『江表伝』にあるように史実ではあるのだが、赤壁の戦いの時に行われたわけではない。あくまで演義による脚色である。また、この蒋幹が逆に周瑜の策略で蔡瑁・張允らを借刀計で曹操に殺させたりしている。

赤壁の戦いを舞台にした作品[編集]

  • レッドクリフ - 『三国志演義』における赤壁の戦いを元に制作された。