郭汜
郭 汜(かく し、? - 197年)は、中国の後漢末期の武将・政治家。郭 阿多(かく あた)との記述もあり、幼名か字が阿多(あた)である。郭 多(かく た)とも郭 氾とも言われることがある。
生涯[編集]
涼州張液郡の出身[1]。最初は董卓の校尉として仕える[1]。192年に董卓が王允・呂布らによって暗殺されると、同僚の李傕・樊稠らと結託して長安に攻め込む[1]。この際に呂布の求めに応じて一騎討ちを行ない、敗れて部下に助けられている[1]。長安の戦いは最終的に郭汜らが勝利し、呂布を追放し王允一族を処刑して李傕らと共に後漢朝廷を牛耳り後将軍に昇進する[1]。
郭汜は李傕と最初は協調した。もともと両者は幼馴染で親交も深く、李傕は郭汜を酒宴に招いて屋敷に泊める事もしばしばだった[1]。しかし郭汜の妻が李傕が夫に妾を与えようとしているのではと疑い、両者の仲を引き裂こうと画策し、李傕が郭汜のために贈って来た食事を郭汜が食べようとした際に妻は「毒が入っているかもしれません」と言って試しに食事を毒見させるとそれに毒が入っていたので両者の間に亀裂が走った。実は事前に妻が毒を入れていたのであり、郭汜はなおも李傕を信じようと酒宴に出向いた際に糞の汁で解毒されたので侮辱されたと考えて争うようになった。
李傕・郭汜の争いは一時の和睦をはさんで繰り返され、その間に献帝が同僚の張済によって洛陽に遷され、郭汜は献帝を奪い返そうとして楊奉・董承と戦うが敗れた。献帝が曹操に奉じられると郭汜の勢力は急速に衰退し李傕と共に山賊になるまで落ちぶれた[1]。そして最後は部下の伍習に郿において殺害された[1]。
『三国志演義』でも董卓の家臣として李傕と共に悪逆を尽くす。董卓没後は李傕と共に政権を牛耳るが、この両者の仲違いは楊彪による計略とされる。最後は史実通りである。