孫亮
孫 亮(そん りょう、243年 - 260年)は、三国時代の呉の第2代皇帝(在位:252年 - 258年)。字は子明(しめい)。
生涯[編集]
父は初代皇帝の大帝・孫権で7男(末子)[1]。母は潘氏。皇后は全尚の娘。兄に孫登、孫慮、孫和、孫覇、孫奮、孫休。
孫権が数えで62歳の時の息子で、末っ子として特別目をかけられていたが、他の兄弟と違って凡庸だったという[2]。241年に長兄で皇太子の孫登が早世し、新しい皇太子の孫和と魯王の孫覇が二宮の変で後継をめぐって争い、250年に孫権の命令で孫和の皇太子位が廃されて孫覇が自殺した結果、孫権から新しい皇太子に立てられた[2][3][1]。252年に孫権が崩御したため、皇位を継承して即位する[2][1]。
母の潘氏は権力欲の強い女性で、孫権の病状が重くなった際に前漢の高祖の正妻である呂后のことを調べさせたので、家臣らは呉が彼女に専横されることを恐れて睡眠中に縊り殺している。
即位した時点で10歳の幼君のため、国政の実権は諸葛恪が握った[4]。孫権の崩御に乗じて司馬師の命令で魏軍が南下してきたが、諸葛恪の主導により撃破した[4](東興の戦い)。この勝利に勢いづいた諸葛恪は他の重臣の反対を無視して魏に逆侵攻したが、作戦の失敗と疫病で呉軍は大敗し、声望が落ちた諸葛恪は253年に武衛将軍の孫峻により誅殺された[4]。これにより孫峻が政権を握る[4]。この間、呉では多くの人材が諸葛恪や孫峻により殺され、また魏の出兵でも失敗を繰り返して孫権の晩年から衰退していた国力はますます衰退の一途を辿った。
256年に孫峻が死去すると、同じ孫静の曾孫である従兄弟の孫綝が権力を継承した[5][1]。孫綝は政敵を嗅ぎ出す嗅覚が鋭く、次々と政敵を葬っていき驕慢になっていった[5]。258年9月に孫亮は孫綝の専横を憎んで太常の全尚、将軍の劉丞と共に誅殺を図ったが失敗。孫綝は近衛軍を動員して全尚らを殺すと「荒病、昏乱、大位に処って宗廟を承くべからず」として孫亮の皇位を廃し[5]、新しい皇帝には兄の孫休が即位した[1]。
廃された孫亮は会稽王に格下げされた[1]。260年、孫亮が孫休の弟でかつ先帝であった事から、再び皇帝になるだろうという流言があった[1]。また孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという告発があった。孫休は孫亮を侯官侯に降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺した[1]。孫亮の死に関し孫休による毒殺であったという記録もある。享年18。
『三国志演義』では廃されるところまでは描かれているが、会稽王に降格された時点で姿を消している。
人物像[編集]
『呉歴』には孫亮が聡明だったとして逸話を載せている。孫亮が黄門(宦官)に倉庫にある蜂蜜の壷を取りに行かせたところ、壷の中に鼠の糞が入っていた。孫亮は糞を割り、内部が乾いていたのを見て「もし糞がもとから蜜にあったなら、中まで湿っているはず」と問いただし、黄門は悪事を白状したという。これに対して裴松之は「糞が新しければ中まで湿っているので悪事は暴けなかったであろう」と述べている。