諸葛恪
諸葛 恪(しょかつ かく、203年 - 253年)は、中国の三国時代の呉の武将・政治家。字は元遜(げんそん)[1]。諸葛瑾の長男で、蜀の丞相の諸葛亮の甥。弟に諸葛喬、諸葛融。子は諸葛綽、諸葛竦、諸葛建。
生涯[編集]
諸葛恪は若い頃から才気に優れており、そのため孫権に寵愛された[1]。諸葛恪の才気を物語る逸話がある。
孫権が「お前の父と叔父の諸葛亮ではどちらが賢いのか」と質問した際、「父の方です」と即答した。孫権が理由を尋ねると「父は仕えるべきところを知っていましたが、叔父はそれがわかっていませんでした。それ故、父が勝っているのでございます」と述べた[2]。
また、諸葛瑾は面長で馬面だったため、孫権は群臣の集まった席上で一頭の驢馬を引き出してその驢馬の首に細長い札を付けてそれに「諸葛子瑜」と書かせた。謹厳な諸葛瑾を揶揄したものだが、満座がどっと沸いていたその時、諸葛恪は孫権に対して筆で2字書き加えるのを許してくれるよう願い、許されると驢馬の首の札に「之驢」と書き加えて一座の者はその頓知と機知に舌を巻き、その驢馬は諸葛恪に与えられた[1][2]。
252年、孫権が死去して末子の孫亮が新帝として即位した。しかし孫亮はまだ幼いため、諸葛恪が大権を得て補佐を務めて呉で人気取り政策を打ち出した[3]。また、司馬師が実権を握る魏では孫権の死と幼帝の即位を好機とみて大軍を呉に向けて南下させてきたが、諸葛恪はこの魏軍を東興の戦いで大いに破った[3]。ところがそれで自信を得た諸葛恪は逆に魏への侵攻を計画し、周囲の反対を押し切って北征を開始した。しかし作戦の失敗、遠征軍内部の疫病発生などで大敗を喫した[3]。
この大敗で諸葛恪の声望は1年足らずで地に堕ちた[3]。諸葛恪は武衛将軍の孫峻と親友で、孫亮の補佐役として推挙してくれるほど仲が良かったが、この大敗で周囲から反感を買った諸葛恪を見て推挙した自分にも災いが降りかかるのを恐れた[3]。そして253年、孫峻は諸葛恪を誅殺した[3][2]。享年51[2]。
父の諸葛瑾は諸葛恪の将来に危惧を抱いていた。余りに才気走るところがあったため、「元遜の代に我が家は滅びるだろう」と述べていたというが、それはまさに的中してしまった[2]。
評価[編集]
陳寿は諸葛恪のことを「才気幹略は、邦人の称する所なり。然れども驕かつ吝なるは、周公(孔子が最も理想と仰いだ政治家のこと)も観るなし。況んや恪に於いておや。己を矜り人を凌がば、能く敗るるなからんや」(『呉書』諸葛恪伝)と評している。陳寿は諸葛恪が周公ほどの才能に恵まれていても、そのために増長したり、またそれを人のために出し惜しむとしたら、他にどんな美点があろうと評価に値しないと言っているのである。