曹髦

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曹 髦(そう ぼう、241年 - 260年5月)は、三国時代の第4代皇帝(在位:254年 - 260年)。司馬昭に廃位されたため皇帝としての諡号はなく、一般には即位前の称号で高貴郷公と呼ぶ。彦士(げんし)[1]

生涯[編集]

父は明帝の異母弟で東海定王の曹霖[1]。祖父は初代皇帝の文帝である[1]244年に高貴郷公に封じられる[1]。曹髦は幼少期から学問を好み聡明だったという[1]

254年に曹芳司馬師に廃された嘉平の変の際、『魏略』で司馬師は最初、曹拠を新帝に擁立しようとしたが、郭太后が曹髦を推挙したため、曹髦が即位した。しかし既に実権は司馬師が掌握しており、255年に司馬師が死去して同母弟の司馬昭が跡を継いでもそれは変わらなかった。しかも龍が井戸に出現したという報告がしきりに上げられ、周囲はこれを吉兆と考えたが曹髦は「龍は君主の徳の象徴であり、上昇して天に安住するわけでもなく、下降して田に安住することもない。たびたび井戸の中に潜伏しているのは良い兆しとは言えない」と述べ、自分の徳の無さを風刺して『潜龍』の詩を作ったが、このため司馬昭は不快に感じたという[1]

260年5月、曹髦は自分がいずれ司馬昭に廃されると考えた。そして「司馬昭の心は路行く人は誰でも知っておる」と詔書を投げ打ち、わずかな手勢を率いて決起し、司馬昭を討とうとした[1]甘露の変)。司馬昭の重臣で中護軍であった賈充は兵を率いて待ち受けていたが、相手が皇帝と知って誰も手出しができなかった[1]。しかし部下の成済が立ち上がって曹髦は殺害された[1]。享年20。陳寿はこの事件を「亡くなった」としか記録しておらず、詳細は伝えていない。司馬昭は皇太后を動かして曹髦に罪ありとして庶人に落とし、新しい皇帝に曹奐を擁立した。

三国志演義』でもほぼ同様の末路を迎えている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 小出『三国志武将事典』P187

参考文献[編集]