曹芳
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曹 芳(そう ほう、232年 - 274年)は、三国時代の魏の第3代皇帝。(在位:239年 - 254年)。司馬師に廃されたため皇帝としての諡号は無く、一般的に斉王と称されている。字は蘭卿(らんけい)[1]。
生涯[編集]
皇帝でありながら出生が明らかではない。『魏氏春秋』では任城王・曹楷の子とされている。つまり曹操の曾孫で、曹彰の孫ということになる。
第2代皇帝の明帝の実子は早世したため、親族にあたる曹詢・曹芳兄弟が養子に迎えられ、235年に曹詢が秦王に、曹芳が斉王に封じられた[1]。239年に明帝が崩御したため、わずか8歳で即位する[1]。しかし幼帝のため、大将軍で皇族の曹爽と曹操時代からの宿将である司馬懿が後見人になった[1]。しかし司馬懿が退けられると曹爽一派による専横が行なわれる。
249年に司馬懿が正始の変と称されるクーデターを決行すると曹爽一派は処刑され、代わって司馬懿の一族が国政を掌握[1]。251年に司馬懿が死去した後はその長男の司馬師と次男の司馬昭らが実権を掌握した。254年、李豊・夏侯玄・張緝(張皇后の父)らが司馬師を殺害するクーデター計画を練ったが、計画が露見してこの3名をはじめとする関係者は悉く処刑された[1]。さらに曹芳も成人であるのに政務を顧みず、色欲に耽っているとして廃帝とされ、代わって曹髦が皇帝に擁された[1](嘉平の変)。
廃帝とされた曹芳は元の斉王に降格され、265年に司馬昭の嫡男・武帝により西晋が建国されると邵陵県公に降格された[1]。274年に死去[1]。享年43。厲公と諡された[1]。
このような経緯から正史では「斉王紀」と名付けられて後世にも皇帝の扱いは受けなかった。