呉 (三国)

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(ご、229年 - 280年)は、中国三国時代江南を支配した王朝。三国時代における王朝で、4代51年とその支配は三国の中で最も長期であった。孫氏が支配した王朝であることから、他の呉王朝と区別するために孫呉(そんご)と言われることが多い。首都建業(現在の南京)。

歴史[編集]

創設[編集]

呉の基礎を築くことになる孫堅は成り上がりの軍人であり、後漢末期に海賊退治などでその武名を知らしめた。184年黄巾の乱が発生すると、孫堅は反乱軍討伐で大いに功績を立てた。その後も各地の反乱討伐でいずれも功績を立てて、その名は大いに知られることになる。孫堅は曹操と異なり、後漢の名門として割拠していた袁術に従い、その配下として董卓劉表らと戦うが、192年に劉表に敗れて戦死する。

孫堅の死後、長男の孫策が跡を継ぐが、孫堅の死により一族は袁術に帰属する。しかし、袁術に重用されなかったことから、袁術の下から離れて197年頃に江南の諸侯を倒し、同地に割拠した。孫策は江南の地で豪族の支持を集めて勢力基盤を整え、200年には袁紹と手を結んで曹操を倒すために北上しようとしたが、同年に早世する。孫策の死後、弟の孫権が跡を継ぐと、曹操とは一時的に和を結び、西の劉表を攻めて勢力を拡大しながら国内の内治に励んだ。その結果、孫権の勢力は曹操を次ぐ第2位にまで上昇したが、208年に曹操の南下が始まると存亡の危機に立たされる。このとき、孫権は劉備同盟を結んで曹操と対抗し、赤壁の戦いで曹操軍を打ち破って自己の勢力を確固たるものとした。

赤壁の後も曹操の南下は続くが、かつてほどの勢いは無く、これらは全て撃退している。また劉備とは同盟を結んでいたが、やがて荊州の領有権をめぐって争うことになった。孫権はこれに対して曹操と和睦して219年に荊州に侵攻し、曹操を攻めていた関羽軍を挟撃して関羽を最終的に捕縛して斬首し、荊州の大半を手に入れた。しかしこのため、関羽の報復と荊州の奪回を目指す劉備率いる蜀軍との戦いは避けられないものとなり、222年に孫権は曹操の跡を継いでを建国していた曹丕に臣従の意思を示し、その見返りに曹丕より呉王の地位を与えられた。これをもって呉の建国と見る説もある。孫権は魏に臣従することで後背の安全を確保すると、劉備率いる蜀軍に対しては名将・陸遜に呉軍を率いさせて当たらせ、夷陵の戦いで蜀軍を大いに破って大勝した。その後、この戦いの間隙を突いて曹丕率いる魏軍に攻められるが、孫権の呉軍はこれらをいずれも撃退。そして孫権は新たに黄武元号を立てた。これをもって呉の成立と見る説もある。

223年に劉備が崩御し、劉禅が跡を継ぐと、孫権は正式に蜀と和睦して連合して魏に当たることになる。曹丕からは226年まで連年のように攻められるが、これらはいずれも撃退した。229年、孫権は正式に皇帝に即位し、呉がこうして名実共に成立することになった。

全盛期から衰退期へ[編集]

孫権は皇帝として即位すると、蜀の諸葛亮と連携して何度も魏に攻め入るが、曹叡の前に敗れている。とはいえ、孫権の時代にほぼ国内は整備されて呉は全盛期を迎えた。

ところが241年、孫権の皇太子であった孫登が死去すると、情勢が不穏となる。孫権は新たな皇太子として孫和を立太子したが、この際に孫覇も孫和と同様の待遇を与えるという支離滅裂な対策をとったことから、これが後継者をめぐって重臣や豪族を巻き込んだいわゆる二宮の変と呼ばれる政争の始まりとなってしまった。老いた孫権はこの政争に対して積極的に手を打とうとせず、結果として呉は孫和派と孫覇派に分かれて争いを繰り返し、この中で陸遜をはじめ多くの有能な名臣・忠臣が無駄に命を散らすことになってしまった。250年になって孫権は解決に動くも、孫和を廃太子にし、孫覇を自殺させ、さらに多くの重臣を処罰するという最悪の決着をつけたことから、呉の衰退は最早避けられないものとなった。

252年に孫権が崩御すると、末子の孫亮が第2代皇帝に即位する。しかし孫亮は即位時点で10歳のために、重臣の諸葛恪が実権を握った。諸葛恪は孫権の崩御に乗じて侵攻してきた司馬師の魏軍を破り、逆に魏に逆侵攻するが大敗する。これにより声望を落とした諸葛恪は253年皇族孫峻によって暗殺された。その孫峻は政権を握ると皇帝を傀儡にして専横を繰り広げ、政敵は容赦なく殺したり追放したりした。256年に孫峻が病死すると、従弟の孫綝が後継者となって同じような専横を繰り広げた。この間、呉軍による魏への侵攻も試みられているが、それらは全て司馬昭によって撃退されている。即位当初は10歳だった孫亮も、孫綝が政権を握る頃には15歳に成長しており、自らに実権を取り戻そうと258年に宮中クーデターを試みたが、決行直前に計画が露見して孫綝によって孫亮は廃立され、新たな皇帝には孫亮の兄・孫休が擁立されることになった。

孫休も孫綝の専横は快く思っておらず、重臣の丁奉らと結託して孫綝を258年に抹殺し、実権を奪い返した。しかし孫休はその後、学問に傾倒して国政を省みることがほとんど無くなり、実権は次第に重臣に握られてゆくようになる。また、263年には魏によって蜀が滅ぼされ、呉は次第に外圧にも苦しめられるようになった。264年、孫休が崩御すると、重臣らが孫休の遺言に背く形で甥に当たる孫晧を第4代皇帝として即位させた。

滅亡へ[編集]

孫晧は即位当初は名君と呼ばれて良き政治を行なった。ところが次第に酒色にふけり、何度も遷都したりして浪費を繰り返した。これらを諌める者もいたが、それらは殺されるか追放されるなど、暴君として孫晧は君臨することになった。しばらくは、陸凱並びに陸抗らの陸氏一族が国家の柱石として存在していたことから、265年に魏を滅ぼして成立していた西晋から攻められても何とか撃退していたものの、孫晧の暴政は留まらず、さらに陸凱が269年に、陸抗が274年にそれぞれ死去すると、最早国家を支えられる柱石もいなくなってしまった。

この機を見た西晋の司馬炎は、279年から西晋の総力を挙げた大軍を呉に向けて南下させる。既に孫晧の暴政で人心が離反していた呉にこれを防ぐ力は無く、280年に首都の建業が陥落して孫晧は降伏し、ここに呉は滅亡した。

孫晧は助命されて洛陽に送られ、西晋の重臣として迎えられて284年に天寿を全うした。

歴代皇帝[編集]

諡号 廟号 姓名 在位 元号
大帝 太祖 孫権 222年 - 252年
黄武 222年 - 229年

黄龍 229年 - 231年
嘉禾 232年 - 238年
赤烏 238年 - 251年
太元 251年 - 252年
神鳳 252年

会稽王
(廃帝)
孫亮 252年 - 258年 建興 252年 - 253年

五鳳 254年 - 256年
太平 256年 - 258年

景帝 孫休 258年 - 264年 永安 258年 - 264年
末帝 孫皓 264年 - 280年 元興 264年 - 265年

甘露 265年 - 266年
宝鼎 266年 - 269年
建衡 269年 - 271年
鳳凰 272年 - 274年
天冊 275年 - 276年
天璽 276年
天紀 277年 - 280年