曹叡
曹 叡(そう えい、? - 239年1月1日(239年1月22日))は、三国時代の魏の第2代皇帝(在位:226年 - 239年)。字は元仲(げんちゅう)[1]。諡号は明皇帝(めいこうてい)。
初代皇帝の文帝と甄氏の長男。曹操の孫。父帝の崩御により第2代皇帝として即位し、孫権や諸葛亮の侵攻に的確に対処し、遼東の公孫淵を滅ぼして勢力を拡大するなど聡明な皇帝だったが、父帝同様に若死した。曹叡の崩御により以後の魏皇帝は名目的存在となり、その権力は急速に衰退してゆく。
生涯[編集]
即位前[編集]
曹叡は幼い頃から祖父の曹操に可愛がられ、常に側近くに置かれたという。5、6歳の頃から驚くべき神童ぶりを発揮し、曹操は曹叡が並の才能の持ち主ではないといち早く見抜いて「我が覇業は汝で3代目になる」とまで言い、朝廷の宴会や会議の席では必ず近侍の者と共に自分の側に侍らせていた。曹叡は読書が好きで幅広い知識を身につけ、特に法律の学問に興味を示したという(王沈の『魏書』)。
15歳で武徳侯となり、221年には斉公に封じられ、222年には平原王に封じられる。しかし母親の甄氏が221年に文帝の命令で自殺させられていたため、曹叡は皇太子には立てられなかった。
226年5月に文帝が重病になると、その際にようやく皇太子に立てられた。『魏末伝』によると文帝が数ある息子の中から曹叡を皇太子に選んだ理由は文帝と共に狩りに出かけた際、子連れの母鹿に出会って文帝が母鹿を殺してから曹叡に小鹿を射るように命じたが曹叡は「陛下が既に母鹿を殺されました。その上に子鹿まで殺すなど、私には忍びませぬ」と拒否して涙を流し、文帝はすぐに弓矢から手を離して曹叡に深く感じ入り、皇太子に立てる決意を固めたという。
文帝は間もなく崩御し、曹叡が明帝として魏の第2代皇帝に即位した。
治世の前半[編集]
明帝の時代は引き続き、祖父の時代から魏に仕える曹真・曹休・司馬懿・張郃・満寵といった名将・名臣の補佐があり、即位は動揺なく行なわれた。ただ、明帝は文帝の崩御直前に皇太子に立てられた経緯から、朝廷の重臣らは明帝と接する機会がなく、そのためどんな人物か知りたがった。近侍の劉曄がただ一人召されて終日語り合った際、明帝がどんな人物かを他の重臣から聞かれた際に「秦の始皇帝や漢の武帝に匹敵する御方であるが、才略の点ではわずかに及ばない」と評価したという(『世語』)。
文帝の急死とまだ20歳前半の若い明帝の即位により、呉の孫権は226年8月に政権交代の動揺を突くべく江夏郡に侵攻する。これに対して魏の朝廷では江夏郡を守る文聘に援軍を送るべきと進言したが、明帝は「孫権は水上の戦いを得意としているはず。にも関わらず船を捨てて陸路から攻めてきたのは我がほうの不備に乗じようとしての事。だが文聘は今の段階でよく持ちこたえているし、城を攻める側は守りより2倍以上の兵力を必要とする。だから孫権は間もなく撤退する」と的確に読み、治書侍御史の荀禹を派遣して前線を慰問させる事にした。荀禹は明帝の命令で江夏郡に到着する道筋で徴発した兵士とあらかじめ従えて来た歩兵・騎兵1000人ばかりを連れていたが、山に登って狼煙を上げると孫権は援軍が来たと見て撤退した。襄陽にも呉の諸葛瑾と張覇が攻めてきたが司馬懿に命じて張覇を討ち取り撃退した。さらに尋陽に侵攻して来た呉軍も曹休により撃退された。
227年12月、新城郡太守の孟達が諸葛亮と通じて謀反を起こした。明帝は司馬懿に命じて228年1月に孟達を討伐させ、その首級を洛陽に送らせた。
諸葛亮の北伐が開始されると、天水郡・南安郡・安定郡の3郡が蜀に制圧され、魏の朝廷は大慌てになった。しかし明帝は極めて落ち着いており、「諸葛亮は蜀の険阻な山々を頼みに専守防衛をはかってきた。それが向こうからやって来たとすれば兵法にいう「誘き出し」の術に嵌ったようなもの。しかも奴は3郡を手に入れて有頂天になり、進むを知って退くを知らぬ。今この時に乗ずれば、間違いなく破る事ができる」と分析し、自ら兵馬を整えて歩兵・騎兵5万を率いて長安に親征した(『魏書』)。明帝は大将軍の曹真に関右の軍勢を与えて諸葛亮の迎撃に向かわせ、右将軍の張郃が街亭の戦いで馬謖率いる蜀軍を破ったので諸葛亮は漢中に撤退し、奪われた3郡は再び魏の手に帰した。
228年12月、諸葛亮の第2次北伐が行なわれるが、明帝は曹真・費曜らを援軍に派遣し、陳倉城を守備する郝昭の奮戦もあり、諸葛亮は敗れて撤退した。この年に遼東では政変が起こり、太守の公孫恭が公孫淵に位を奪われた。明帝はこれを承認して公孫淵を遼東郡太守に任命した。
230年2月、明帝は曹真を大司馬に、司馬懿を大将軍に、公孫淵を車騎将軍に任命した。7月、明帝は曹真・司馬懿に軍を与えて蜀の討伐に向かわせた。しかし2か月後の9月、大雨が降り続いて伊水・洛水・黄河・漢水が氾濫したため、明帝は曹真らに軍の撤退を命じた。
231年3月、曹真が死去し、その隙を突くように諸葛亮が天水郡に侵攻する。明帝は司馬懿・張郃らを防衛に当たらせ、張郃を失ったものの諸葛亮を撃退し、明帝は功績ある者に爵位や禄高の加増を行なった。この際、魏の朝廷では諸葛亮の軍勢を自滅させるために付近の麦を刈り取るように進言する者、蜀軍がいつものように食糧不足に苦しんで撤退するに違いないから援軍を送る必要はないとの意見があったが、明帝はどちらの意見にも従わずに次々と司馬懿の下に援軍を送り込んで麦を確保させ、その麦を兵糧にして司馬懿は諸葛亮と対峙することができたという(『魏書』)。
233年12月、公孫淵が孫権の派遣してきた使者2名の首を刎ねて明帝の下に送ってきたので、明帝はその功績を賞して公孫淵を大司馬・楽浪公に封じた。
234年4月、諸葛亮が魏領に侵攻して来たため、明帝は司馬懿に命じて防衛に当たらせた。この際、明帝は司馬懿に対して専守防衛に徹して蜀軍が食糧不足に陥って撤退するのを待ち、そこを休養を十分にとった自軍で追撃するように命じている。5月に呉の孫権が諸葛亮に呼応して合肥に侵攻してくると、明帝は征東将軍の満寵に命じて防衛に当たらせた。この際に満寵は合肥新城の守りを放棄して呉軍を寿春まで誘い込む作戦を明帝に進言したが、明帝は「昔、漢の光武帝は遠く軍を送って西方の略陽を占拠し、ここを基点にして蜀を撃ち破った。また、我が先帝におかれては東は合肥、南は襄陽の守りを固められ、攻めてくる敵をこれに迎えて撃ち破られた。それは他でもない。これらの地が双方にとって必争の地である事をよく心得ておられたからだ。今、孫権は新城の攻略にかかっているが、決して落とすことはできない。諸将に対し、断固守り抜くように命じる。朕も自ら軍を率いて親征するつもりである。だが、朕が到着する頃には孫権は恐らく退散しているに違いない」と満寵の作戦を却下して断固防衛を命じた。7月、明帝が軍勢を率いて親征すると、孫権は明帝の軍勢がまだ数百里手前にあったのに慌てて撤退した。この時、重臣の中には孫権の撤退を受けて明帝に西で諸葛亮と対峙する司馬懿の救援に赴くべきという意見もあったが、明帝は「孫権が逃げ帰ったから諸葛亮は愕然としていることだろう。だから司馬懿は諸葛亮を押さえ込めるから何の心配も無い」と言って寿春に到着すると、そこで諸将の功績を記録して論功行賞を行ない、8月には近衛軍の将兵を饗応し、さらに防戦で活躍した合肥・寿春の諸軍を労った上で許昌に帰還した。この月に諸葛亮が陣没し、蜀軍は本国に撤退して戦いは明帝の勝利で終焉した。
乱行[編集]
諸葛亮が死去して外圧が無くなり緊張の糸が切れたためか、明帝はそれまでの名君から少しずつ変貌を遂げてゆく。235年1月、司馬懿を太尉に任命し、3月に継母の郭皇后が崩御すると文帝の定めた規定に従って葬ったとされるが、一説に生母の甄氏を殺された真相を知った明帝が殺害したとする説もある。
この年から明帝は洛陽宮の大規模な修復を開始し、さらに昭陽殿・太極殿・総章館を新築し、そのため農民は使役に駆り出されて農耕が乱れた。このような事態を見た重臣の楊阜や高堂隆らは明帝に諫言したが、明帝は聞き入れずだからと言って咎める事もしなかった。
『魏略』によると、明帝が新築した宮殿の高さはいずれも十丈余りで屋根の上に鳳のはばたいている像が乗せられ、さらに芳林園の中に池を造り、後宮の才人を序列に従ってそこに住まわせ、貴人・夫人以上の女たちには南側の御殿をそれぞれ与えた上、百官に準じた待遇も約束された。明帝はその中で遊興にふけり、字が書けて信頼のできる6人を選んで女大臣とし、臣下の上奏事を司らせて決済させた。そのため上は貴人から下は尚保に至る側妾たち、後宮の掃除に携わる者、歌や技芸をする者などはそれぞれ1000人に達した。さらに明帝は穀水を引いて九龍殿の前に通し、玉の井桁、きらびやかな欄干をめぐらし、龍をかたどった彫刻から水を吐き出させ、ガマの彫刻にそれを受けさせる仕掛けまで造った。太子舎人の張茂は明帝の宮殿造営や贅を尽くした暮らしを上書して諫言したが、明帝は少し上書に目を通すと「張茂は朕と同郷であるから、かような事を申してきたのだ」と言っただけで聞き入れず、後の処理を担当の役所に任せるだけだったという。
公孫淵の乱[編集]
明帝が乱行を繰り返すのを見てか、237年7月に呉の孫権が朱然に2万の兵を与えて江夏郡に侵攻して来るが、荊州刺史の胡質により撃退に成功している。
明帝は遼東の公孫淵が孫権と通じているのを見て、幽州刺史の毌丘倹に鮮卑族や鳥丸族の兵力を与えて遼東の南の境界にまで進出させた上で、公孫淵に詔勅をもって洛陽に出頭するように命じた。これに対して公孫淵は明帝に対して反旗を翻したので、毌丘倹に命じて討伐を行なわせた。しかし雨が10日も降り続いて潦水が氾濫を起こしたので、毌丘倹は右北平に撤退せざるを得なくなった。遼東に居住していた王護留と寇寠敦らは配下の部族を率いて毌丘倹を通じて明帝に帰順した。明帝は遼東に駐在する将兵や官吏に対して、公孫淵に脅迫されてやむなく留まった者についてはこれを許すとする旨の詔勅を発した。
公孫淵は毌丘倹が撤退すると自立して燕王と称したので、明帝は青州・幽州・冀州などに対して大々的な船の建造を命じた。237年9月、冀州や徐州・豫洲などで洪水による大被害があったため、明帝は侍御史を差し向けて巡検させ、水害によって死亡したり財産を失った者に対して最寄りの官倉を開いて救済を行なった。
238年1月、明帝は太尉の司馬懿に遼東の公孫淵討伐を命じた。この際に明帝が公孫淵がどんな作戦で迎撃するかを尋ねると司馬懿は「城を棄てて逃げるのが上策。潦水で我が軍を迎え撃つのが次善の策。本拠の襄平に立て籠もるなら我が軍の虜となる」と答え、明帝は3つのうち、公孫淵がいずれの策を用いるか尋ねると「あらかじめ彼我の戦力を勘案し、時には本拠を放棄する。こういう思い切った作戦は智者でなければ採用できず、公孫淵には無理です。彼は多分、我が軍がはるばる遠征していくので持久はできないと考え、潦水に防衛線を築き、次いで本拠を守る策を採るに違いありません」と答え、明帝が行って帰るまで、どれほどの日数を必要とするのかを尋ねると「往路に百日、攻撃に百日、攻撃に百日、それに休息に60日あてるとして、1年もあれば充分です」と答えたという(干宝・『晋紀』)。
この司馬懿の遠征の際、明帝は4万の兵力を司馬懿に預けたが、重臣らが4万は多すぎ、戦費の調達が難しいとして反対意見を唱えた。しかし明帝は4000里も遠方の遠征であり、戦費を惜しんではならないとして司馬懿に4万を預けた。ところが司馬懿の遠征の際、長雨に見舞われて魏軍の攻撃が停滞したので、重臣らは司馬懿に帰還を命じるように述べた。しかし明帝は司馬懿ならこの程度はいくらでも対応でき、公孫淵は近日の内に虜にできるとして聞き入れなかった。238年8月、司馬懿は襄平を包囲して公孫淵軍を打ち破り、その首級を洛陽に送り届け、遼東は平定された。11月に明帝は公孫淵討伐の功労者である司馬懿をはじめとした諸将に加増・封爵を行なった。
最期[編集]
238年12月、明帝は重病に倒れた。このため天下の男子に爵位2等級を授け、未亡人や孤児に対してそれぞれ穀物を賜与した。明帝は自らの死期を悟り、叔父にあたる燕王・曹宇を大将軍に任命して後事を託そうとした。曹宇は司馬懿の功績や存在を恐れており、明帝に対して「西方の関中の情勢が厳しいので、司馬懿を河内から近道を通って西に派遣すべきだ」と進言し、その旨を携えた使者が司馬懿の下に遣わされていた。しかし明帝の側近の孫資・劉放らが曹宇の大将軍を快く思わず、明帝に讒言したので曹宇は解任され、武衛将軍の曹爽が大将軍に任命された。
明帝は劉放の進言に従って司馬懿を召し寄せることを決め、病気を押して詔書をしたため、辟邪に命じて司馬懿に届けさせた。司馬懿は直筆の詔書を受け取ったことで洛陽に異変が起こったと察知し、慌ただしく戻って明帝に拝謁した。
239年1月、明帝は司馬懿を寝室に引き入れて手を取りながら曹爽と共に幼児の養子である曹芳の補佐・後事を託した。そして曹芳を司馬懿の前に進ませて司馬懿の首に抱き着かせた。司馬懿はひれ伏して落涙したという。
そして後事を託したその日に明帝は嘉福殿で崩御した。享年に関しては34歳・35歳・36歳までの諸説があり、陳寿は36歳を採用している。明帝の遺体は高平陵に葬られた。
明帝の遺詔の通り、司馬懿と曹爽は8歳の曹芳を後継者として立てるが、すぐに幼帝の下で権力争いが始まり、この争いの中で魏の皇帝は形式的な存在に成り果てて国家は急速に衰退してゆくことになった。
人物像[編集]
生年に関しては204年、205年、206年の3説がある。この内、206年ならば文帝の息子ということで問題ないのだが204年、あるいは205年だと甄氏の前夫であった袁煕が父親の可能性も出てくる。この手の話は始皇帝、斎藤義龍などにもあるため後世の創作の可能性もあるが、甄氏が自殺させられたこと、文帝が曹叡を愛さなかったことなども傍証の一つとして採用できるのは事実である。ただ甄氏は袁煕が幽州に赴任した際に同行しなかったとあるため、父親が袁煕かどうかは疑わしい。この袁煕実父説に関しては『三国志集解』で触れられている。
正史の著者である陳寿は曹叡のことを「沈着で決断力に富み、思っている事をそのまま実行に移した。君主としての風格を十分に身に付けていたように思われる」と賞賛するも「しかしながらこの時代、天下はまだ分裂し、人民は疲弊していたにも関わらず、先祖の事業を受け継いで大業の基礎を固めようとせず、秦の始皇帝や漢の武帝を真似て宮殿の造営に走った。長期的展望を考えると、ほとんど致命的過ちである」と批判する評価を加えている。
『魏書』では曹叡は容姿端麗で威厳のある風貌の持ち主だったという。皇帝としての評価は功績ある者や能力ある者を抜擢し、阿諛追従や讒言に惑わされず、特に軍事行動に乗り出す際には素晴らしい知略を発揮したと評価している。この曹叡の知略には謀臣や将軍も敬服したという。また曹叡は生まれつき記憶力が良く、左右に仕える小身の家臣でもその経歴や性格、功績、家族関係に関する記録を1度見ただけで決して忘れる事はなかったという。恥を忍び苦痛に耐え、よく直言に耳を傾け、身分卑しい者の上書まで受け入れたので届けられる上書は1日に数千通にも達したが、どんな下手糞な文書でも嫌がらないで最後まで目を通したという。このように『魏書』で曹叡は名君・賢君として高く評価されている。
歴史家の孫盛は長老が自分に語らった形にして「明帝は生まれつきすらりとした容姿をしており、立ち上がると地面まで髪が垂れた。どもりで口数が少なかったが、反面で沈着で決断力に富んでいた。即位した当初は文帝の遺言によって諸公の補佐を受けたが、やがてそういう人々を全て長官として地方に出し、自分で政治を執り行なった。しかし、重臣には丁重な態度で接し、よく直言を聞き入れ、耳に痛い諫言をする相手でも誅殺することはなかった。君主としての度量はこのように偉大なものがあった」と、皇帝としての曹叡を絶賛する一方で、「しかしながら、徳業に務めて教化の実をあげようとしなかったばかりか、国家の根本をないがしろにして大権を一部の重臣に与え、皇室の藩屏を無くしてしまった。何と悲しい事ではないか」と批判も加えている。ただ、魏の皇室冷遇は曹叡ではなく文帝がやり始めた事で、全てを曹叡の責任にするのは少し酷ではある。
大変な母親想いの人物で、即位するとすぐに母親に皇后の位を追贈して名誉を回復している。また、母親を死に追いやる原因を作ったとされる郭皇后を自ら殺害したとする説も存在する。
曹叡が宮殿造営に力を注いだ結果、魏では農村が荒廃して人身売買が国内で盛んになるなど滅亡の端緒が築かれたことも否定はできない。なお、夏侯玄や諸葛誕らが『四聡八達』として互いに格付けしていたのを軽薄だと嫌い、免職にした際に官吏の選抜を勧めていた盧毓に『画餅』と述べたのが、後に『画に書いた餅』すなわち画餅の由来となったとされている。
三国志演義[編集]
三国志演義では史実と異なり凡庸な皇帝として描かれ、何事も曹真や司馬懿の助け無くしてはできず、諸葛亮からは「恐れるに足りない」とまで酷評されている(ただその恐れるに足りない曹叡に最後の北伐で孫権率いる呉軍を破られて精神的に死に追い込まれているのだが)。諸葛亮が亡くなると外敵の脅威が無くなったために盛んに土木工事を開始。その凄まじい労役や重税に次々に諌める家臣が現れたが曹叡はこれらを全て処刑した上に諌める者があれば煮殺すとまで触れを出す有様で、完全に暴君・愚君に変貌する。さらに不老不死の薬を求めたりするなど晩年の失政が史実以上にひどく描かれている。最後は後継者の曹芳を指差して崩御するという鬼気迫るものになっている。
宗室[編集]
- 兄弟
- 東郷公主 - 同母妹
- 后妃
- 実子
脚注[編集]
- ↑ 小出『三国志武将事典』P184