二宮の変

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二宮の変(にきゅうのへん)とは、中国三国時代241年から250年まで続いた後継者争いである。二宮事件(にきゅうじけん)とも称される。二宮とは呉の初代皇帝孫権の3男・孫和と4男・孫覇の事で、皇子=宮であることから二宮と称される。この争いで呉の国力は大きく衰退し、後の280年における呉滅亡の原因の一つになった。

なお、この二宮の変の記録の大半が『呉書』の記述を基本にして西晋に仕えていた陳寿がまとめたものである。『呉書』は呉の第4代皇帝・孫皓の干渉や圧力がかなり加えられており信頼性に疑問を持たれる部分も少なくなく[1]、必ずしもこの記述が正しいとは言えない。なお、記述の大半は陳寿の正史を参考とする。

経過[編集]

序曲[編集]

241年5月、呉の初代皇帝・孫権の長男で皇太子に指名されていた孫登が33歳の若さで死去した。孫登は優秀な人物で周囲からの信望も厚く、また徳に溢れた人物として期待されていただけに孫権や呉の衝撃は大きかった。しかし孫登は自分の死で呉に混乱が起こる事を避けるため、孫権に対して弟の孫和を皇太子に立てるように遺言していた[2]。孫権はこの遺言に従い、242年1月に孫和を新たに皇太子に立てる。ところが同年の8月、孫権は孫和の弟・孫覇を魯王に封じ、待遇を同等にしてしまった。つまり、皇太子がいながらそれに匹敵する皇子がいるという事態になり、呉の豪族や重臣らは将来を見据えて子弟をそれぞれの皇子に送り出して仕えさせるようになる。こうして、後継者の座をめぐって皇太子(孫和)派と魯王(孫覇)派が結成される事態になってしまった。

皇太子(孫和)派と魯王(孫覇)派[編集]

ここで、両派に属した面々について名前を挙げる。

次に、この両派閥の主要メンバーの血縁関係について挙げる。

  • 陸遜(妻は孫策の娘。つまり孫権は妻を通じて叔父。孫和は従兄弟になる)。
  • 陸抗(陸遜の次男。母は孫策の娘。妻は張承の娘なので孫和とは義兄弟になる)。
  • 顧譚(顧雍の孫。母は陸遜の妹)。
  • 張休(張昭の末子。張承の末弟。孫和の妻方の叔父)。
  • 諸葛恪(諸葛瑾の長男。諸葛亮の甥。張承の義兄弟で孫和の義理の叔父)。
  • 全琮(孫権の娘・孫魯班の夫)。
  • 朱拠(孫権の娘・孫魯育の夫)。
  • 顧承(顧譚の弟。母は陸遜の妹)。
  • 陸胤(陸凱の弟。陸遜の一族)。
  • 全奇(全琮の次男)。
  • 諸葛綽(諸葛恪の長男)。
  • 朱績(朱然の子)。

このメンバーや血縁を見てわかると思われるが、孫権と共に建国からの功臣として名前が見えるのは陸遜・全琮・歩隲くらいであり、他は功臣の2世、3世の世代である。つまり呉では世代交代がこの時点でかなり進んでおり、人材の質が落ちつつあった感は否めない。張昭(236年没)や諸葛瑾(241年没)といった孫権に建白できたり信任されていた面々が死去していたのも、この内紛が起こった原因のひとつに挙げられるだろう。

また、皇太子派は孫権時代における主流派、魯王派は孫権時代における非主流派の顔ぶれが目立つ。

なお、どちらにも属さずに中立を保った存在に孫権の親友ともいえる朱然が、当初は皇太子派に属しながら後に魯王派に寝返った人物に全琮がいる。

対立(前期)[編集]

当初はこの両派の対立も落ち着いていた。それは丞相に顧雍、皇太子の太傅闞沢といった重鎮がまだ存命していたからである。ところがこの両者は243年に相次いで死去してしまった。

孫権は顧雍の後任に陸遜を、太子太傅の後任に吾粲を任命した。ここでまずかったのは陸遜が呉軍の最高司令官の地位にあるのに丞相に任命された、という事実である。陸遜は荊州や呉の前の首都である武昌の軍権を預けられており、任地である武昌に赴任したまま丞相になったのである。つまり首都に不在の丞相ということになる。首都・建業における政務そのものは平尚書事の顧譚が務めたため大事には至らなかったが、このために陸遜は呉の中枢における政治情勢、後宮内部の情勢、対立の中身にかなり疎くなってしまった。

重鎮の死去で事態が動き出した。太子太傅の吾粲、平尚書事の顧譚らは長幼の序を主張して孫和の後継を高々と主張しだした。さらに内紛を避けるために吾粲は孫覇を地方に出す事も主張した。つまり、まずは皇太子派が動いたのである。ここでまずかったのは丞相である陸遜が長幼の序を主張して派閥の情勢や孫権の考えを余り重視しておらずただひたすら正論を吐き続けた事がある。これが老齢になり度量を失っていた孫権を刺激してしまった。さらに言えば二宮の変の数年前に発生していた呂壱事件で呉の君臣間に少なからず亀裂が走っていた事も混乱を助長した一つの遠因と言えるであろう。

皇太子派は日を追って魯王派に対する批判を強め、これに対して魯王派は沈黙を保ち続けた。そして皇太子派の失敗が始まる。批判を強める陸遜が魯王派の重鎮・楊竺の兄に対して絶縁を勧める手紙を出したり、全琮に対して前漢武帝の時代にその寵愛を楯にして専横を振るった息子を父が殺害した例を挙げて遠まわしに息子の全奇を排除するように勧めたのである。全琮は陸遜と同郷でこの事態を憂いており、陸遜に中枢の政治情勢などをつぶさに報告していた協力者だったが、この過激な手紙は逆効果であり、全琮は陸遜と訣別して魯王派に属する事になってしまった。

さらに事態をまずくしたのが吾粲であり、首都の城門に孫和の正当性と魯王派の悪逆を連ねた檄文を書き連ねた事である。これらの過激な行為は孫権が皇太子派を逆に疎むようになってしまう一因になった。

そして244年になり事態が急展開する。魯王派の全琮・全奇父子による皇太子派への逆襲だった。事は241年まで遡るが、この年に呉軍は寿春に攻め込んで軍の王凌と戦い、司馬懿が救援に駆け付けた事もあり最終的には撤退を余儀なくされている。いわゆる芍陂の役であるが、戦後に問題が発生した。この戦いには全琮ら全一族や張休、顧承らが参戦していたが、戦後の褒賞で張休・顧承らが手厚かったのに対し、全一族は薄かったのである。これを全琮・全奇らは張休・顧承らが不正を働いて褒賞を誤魔化したと訴えたのである。全琮は孫権の娘婿であり衛将軍の地位にあった呉軍の重鎮である。その全琮の訴えを孫権は聞き入れ、張休を逮捕して交州への流罪に処した。また、顧承は張休と比較して罪が軽いとして孫権は兄の顧譚に弁明する機会を与えた。孫権にすれば顧譚に弁明させて謝罪させる事で皇太子派と魯王派の融和を図る思惑があったとされるが、顧譚は孫権に正論と無罪を述べて強硬に孫和の後継を主張したため孫権の逆鱗に触れてしまう。魯王派からは顧譚を不敬罪で死罪にせよという意見が出されたが、孫権は聞き入れずに顧譚・顧承兄弟を交州への流罪にした。

顧譚は2年後に交州で失意の内に病死。張休は魯王派の重鎮で不仲だった孫弘の讒言で処刑された。張休の兄で張昭の長男であった張承も弟の死とほぼ同時期に病死し、この事件で張昭・顧雍の一族は呉の表舞台から脱落し、それは同時に皇太子派の勢力が大いに減退した事も意味していた。

陸遜憤死[編集]

武昌の陸遜は張休・顧譚らの失脚で慌てた。さらに一族の陸胤が送ったスパイを通じて孫権が楊竺と孫和を廃太子にする密談をしていた事も知り、今まで以上に孫権を諌める上奏を繰り返し、さらに自ら建業に赴いて孫権に直訴しようと計画する。だが、上奏の内容から密談が漏れている事を知った孫権が激怒し、楊竺に機密漏洩の調査を命じる。楊竺は陸胤が陸遜に情報を報せた事を嗅ぎ付けて孫権に報告する。孫権は陸胤を呼び出し、さらに陸遜を問い詰め、陸遜は陸胤から機密を聞いたと返書してしまう。陸胤は機密を楊竺から聞いたと証言し、一転して楊竺の立場が悪くなった。結局、拷問の末に楊竺は陸胤の証言を認め、機密漏洩の罪で腰斬の刑に処された上に遺体は長江に遺棄される哀れな末路となった[3]。こうして皇太子派によって魯王派が一矢報われた形になる。

しかし、楊竺は置き土産を残していた。陸遜に対する20条の疑惑である。孫権はこの20条の疑惑を武昌にいる陸遜に対して問い質した。245年2月、問責された陸遜は衝撃の余り憤死を遂げた。一国の丞相が憤死するという異常事態で、二宮の変は呉の全土から他国にまで知れ渡る事態となった。

孫権は陸抗に20条の疑惑の釈明をさせ、問責状の処分を条件に陸氏の相続と立節中郎将への任命を行なう事で陸氏との摩擦を避けている。

対立(後期)[編集]

陸遜の憤死は呉の軍事力の弱体化そのものに直結した。そのため、246年に孫権は大規模な人事異動を行なった。

この人事を見てお分かりと思われるが、朱拠と朱然、諸葛恪以外は全員魯王派である。しかも諸葛恪は密かに魯王派とも通じていたし、朱然は中立派であるから、魯王派にかなり偏重した人事と言わざるを得ない。

一方で陸遜の死後、太子太傅の吾粲が逮捕され、そのまま獄死とも処刑とも言われる最期を遂げた。これにより皇太子派は重鎮をかなり失って弱体化し、孫和の廃太子並びに孫覇の立太子が現実味を帯びてきた。

ところが247年、魯王派の歩隲と全琮[4]が相次いで死去する。これにより魯王派も重鎮を失って皇太子の件は完全に棚上げの状態になった。そしてこの247年には最後の重鎮ともいうべき朱然まで重病に倒れた。朱然は孫権の建国・創業時代から数々の武功を挙げてきた大功臣だけに、孫権は様々な手を尽くしたというが、2年の長患いの末、249年に朱然は死去した。これにより孫権の周囲に建国期の名将・功臣がいなくなった。

最悪の決着[編集]

朱然の死が影響したのかは不明であるが、250年になって孫権は遂に結着に向けて動いた。新しい皇太子には孫権が老齢になって生まれたわずか8歳の末子・孫亮を立てた。この孫亮の妻は全尚の娘であり、つまり全氏一族の勢力拡大が懸念されるので孫権は全琮の遺児・全奇を魯王派の首魁として死罪にし、さらに孫覇には自殺を命じ、孫和は廃太子にした。孫権が孫和も孫覇も外したのは、どちらを選択した場合でも強力な派閥があり禍根を残す事を恐れた、とする説がある。

この余りに強硬な決着の仕方は多くの反発を生んだ。その中でも激しい行動を起こしたのが丞相代行に昇進していた朱拠であり、孫和の名誉回復と太子再封を求めて軍勢を率いて孫権に直訴した。そしてその直訴の方法が事もあろうに軍勢で宮中を包囲するというものだったから孫権の怒りを招き、朱拠をはじめとする主要人物は全員逮捕された。

  • 朱拠 - 追放。後に孫弘の偽詔で自殺
  • 屈晃 - 追放。
  • 陳象 - 死刑・族滅。
  • 陳正 - 死刑・族滅。

こうして魯王派、皇太子派は共にほぼ全滅した。

その後[編集]

251年冬、孫権は重病に倒れて死期を悟り、252年1月に重臣の諸葛恪・孫弘・孫峻・滕胤・呂拠・呂岱らに孫亮と後事を託した。そして252年4月、孫権は崩御した。

孫権は万全な後継体制を築いたつもりだっただろうが、すぐに幼帝・孫亮の下で主導権争いが勃発する。まず、孫亮の生母である潘皇后外戚に権力を奪われる事を恐れた諸葛恪らによって殺害される。続いて中書令の地位を悪用して偽詔を出していた孫弘が諸葛恪・孫峻らによって抹殺された。

こうして政権を掌握した諸葛恪は、孫権の死に乗じて南下してきた司馬師が政権を掌握する魏軍を東興の戦いで撃退して一時的に皇帝をも凌ぐ大実力者になった。ところが調子に乗って北上して逆侵攻したところで魏軍に大敗し、軍内で疫病が蔓延した事により撤退し、その声望は地に墜ちて253年に諸葛恪は孫峻により抹殺される。

以後、孫峻・孫綝らが政権を掌握して呉は彼らの専横により乱れに乱れる。結局、二宮の変から開始された衰退は最後まで挽回できず、また内紛も留まらず、呉は280年に西晋によって滅ぼされる事になるのであった。

影響[編集]

この二宮の変は呉の優秀な人材を次々と死に追いやり、まさに国力の消耗を招いた。孫登が早世するという酌むべき事情があるとはいえ、そもそも内紛の原因を作ったのは皇太子と皇子を同等に扱った孫権自身であり、その孫権の老耄ぶりに陳寿も大いに批判を寄せ、呉の滅亡は孫権の二宮の変における対応が原因であるとさえ断じている。この内紛は後に西晋で行なわれる八王の乱に似ていて「そして誰もいなくなった」だった。陸遜や朱拠ら、存命していれば間違いなく呉を盛り立てた優秀な人材がいなくなり、残ったのはどれも三流ばかりの人材だった。孫権が崩御前に後事を託した人材も、一世代前に較べるとひどい人材レベルに落ち込んでいるとさえ言える。

そして孫権の崩御後もこの二宮の変の影響を軸にした内紛は重なり、同時期に天災も続くなど悪い事は続くもので、呉は人材と国力を大きく消耗して滅亡への道を突き進んだのであった。

疑問点[編集]

陳寿の正史における二宮の変の記述は『呉書』を採用しているが、孫皓が敬愛する父・孫和の名誉回復に躍起になっていたことを知っていたため、以上の点を正史で採用していない。

  • 孫登は孫和を敬愛し、死去する前に孫和に皇太子の地位を譲りたいと思っていた。
  • 孫和は聡明で孫権を諫めて考えを改めさせる聡明さを持っていたので、孫権から息子の中で一番寵愛された。
  • 孫権は危篤の際に孫和の無実を知り、孫和を皇太子として呼び戻そうとした。

また、歩隲や呂岱らは魯王派とあるが、実は正史において陳寿は彼らを明確に魯王派とは認定していない。当時、呂岱は既に80代後半を超える高齢で、歩隲は魯王派にも皇太子派にも縁があり(歩隲の一族・歩夫人は孫魯班と孫魯育の母)、そんな危険を冒す必要性が無かったのも一因しているのかもしれない。

脚注[編集]

  1. 孫皓は二宮の一人・孫和の長男であるため、孫和に対する正当性などが強調されている可能性がある。孫皓は孫和をかなり敬愛しており、『呉書』の編纂を担当していた韋昭が孫和の記述に贔屓を加える事を拒否して処刑される事態になっている。
  2. 次弟・孫慮は既に死去のため。
  3. 楊竺の死亡時期は陸遜の死後とする説もあり、その場合はこの話自体が成り立たない事になる。
  4. 全琮の没年は249年など諸説があるが、二宮の変の最中に死去した事は確かである。