王凌

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

王 凌(おう りょう、172年 - 251年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将彦雲(げんうん)[1]。父は王宏。叔父は王允。兄は王晨。子は王広王飛梟王金虎王明山

生涯[編集]

并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市太谷県)の出身[1]。後漢の司徒董卓192年暗殺した王允の甥である[1]。董卓が暗殺された後にその残党である李傕郭汜らによって長安が攻められて王允が処刑されると、兄の王晨と共に長安の城壁を超えて脱出し、郷里に逃亡した[1]。その後、孝廉に推挙されて発干県長中山郡太守など地方官を歴任して治績を挙げ、それにより曹操から招聘を受けて丞相となる[1]

文帝の時代には孫権討伐で功績を立てたので揚州豫州刺史を務める[1]。政治力もあったようで任地では行政を行き届かせて教化を施し、民衆の評判は非常に良かったという[1]241年に孫権の部下で娘婿の全琮が攻めてきた際には司馬懿の援軍もあって撃退し、秦晃戦死させた(芍陂の役)。これにより南郷侯に封じられて領邑は1350戸を与えられ、車騎将軍儀同三司となり、三公と同等の待遇を受けた[1]。さらに司空に昇進し、司馬懿が高平陵の変を起こして曹爽一派を殺害すると、外甥の令狐愚と謀って曹芳を廃して曹操の息子・曹彪を擁立しようとするが、計画の途上で令狐愚が病死したため計画が延期になる[1]

251年に軍が侵攻してきたのを機に司馬懿を打倒するクーデターを起こそうとしたが、部下の楊弘黄華に密告されたことで発覚し、司馬懿自らが討伐軍を率いて来たため自ら出頭して逮捕される[1]。護送中に項において毒をあおって自殺した[1]。80歳の高齢だった。

これには別の話もある。『王凌伝』によると司馬懿から丁重な親書を送られて反乱を躊躇っている間に司馬懿自ら大軍を率いて南下してきたため、親書にあった甘い言葉に期待をかけて司馬懿の下に出頭して司馬懿に「私をお疑いなら都へ召喚なさればよろしいものを、なぜ老公が自らお出ましになるのですか」と言うと「私の召喚に応じる君ではあるまい」と答えられて「さては謀られたか」と全てを察し、処刑される前に自ら命を絶ったのだという[2]

王凌の死後、司馬懿は寿春に南下して事件の糾明にあたり、曹彪は自殺を命じられ、王凌の三族は処刑された[1]。王凌・令狐愚の墓は暴かれて遺体を市場に晒された[1]

三国志演義』には登場しない[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n 小出『三国志武将事典』P22
  2. 守屋『中国皇帝列伝・創業編』P173

参考文献[編集]