孫綝
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孫 綝(そん ちん、または、そん りん、231年 - 258年)は、中国の三国時代の呉の皇族・武将・政治家。字は子通(しつう)[1]。孫堅の弟の孫静の曾孫、孫峻の従弟に当たる。祖父は孫暠、父は孫綽。弟に孫拠・孫恩・孫幹・孫闓。従兄に孫慮(孫憲)。従姉は全尚の妻で孫亮の皇后の母。
生涯[編集]
最初は偏将軍の地位にあり、256年に孫峻が病死するとその跡を継いで侍中・武衛将軍として呉の権力を掌握した[1]。しかし孫峻と同じように暴虐で、政敵の呂拠や滕胤を殺害して大将軍・仮節・永寧公となる[1]。さらに従弟の孫憲と王惇の謀反も鎮圧し、王惇を殺し、孫憲は自殺させた[1]。
257年5月、魏で諸葛誕の乱が起こると、文欽・全端・全懌・唐咨ら3万を援軍として派遣し、自らも魏へ出陣する[1]。しかし魏の司馬昭に大敗を喫して多くの将兵を失って民衆の不満を買った[1]。
258年、皇帝の孫亮が全公主(孫魯班)・太常の全尚・将軍の劉承らと共に孫綝の暗殺を計画すると、孫綝は孫亮の皇后(母は孫綝の従姉)からその知らせを聞いて劉承を殺し、孫亮を廃帝とした[1]。そして新帝に孫亮の兄・孫休を擁立した。ただし孫綝は自ら皇位に即位しようとする野心があったという(『会稽典録』)。孫綝は丞相・荊州牧に任命されて権力をさらに強めた[1]。しかし孫休は張布や丁奉らと孫綝を謀殺する計画を立て、同年12月に孫綝は参内した際に捕らえられた。孫綝は命乞いしたが孫休は許さず処刑した[1]。享年28(太平の変)。
死後、諸葛恪の名誉が回復され、孫峻は墓を暴かれて名誉を全て剥奪された。
『三国志演義』でも史実同様に暴虐を極めた上で殺されている。