張休 (呉)
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張 休(ちょう きゅう、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の政治家・武将。字は叔嗣(しゅくし)[1]。父は張昭。兄は張承。
生涯[編集]
張昭の末子[1]。20歳の頃に諸葛恪・顧譚・陳表と共に孫登の側近として仕えた[1]。241年に孫登が早世すると侍中・羽林都尉に任命されて三典軍の指揮にあたり、揚武将軍となる[1]。二宮の変では姪が孫和の妃だったため孫和派に属したが、このため孫覇派の讒言を受けて交州へ流刑にされ、さらに不仲だった孫弘の讒言を信じた孫権の命令で自害させられた[1]。享年41[1]。
没年は243年とされるが[1]、この時点ではまだ長兄の張承が存命しているため少し考えにくく、張承の死去した244年以降ではないかと思われる。
『三国志演義』では張昭の次男とされ、第98回で孫登の右弼(補佐官)として登場するのみである。