滕胤
滕 胤(とう いん、? - 256年)は、中国の三国時代の呉の武将・政治家。字は承嗣(しょうし)[1][2]。父は滕冑。伯父は滕耽。妻は孫権の娘。後に孫奐の娘。娘は諸葛竦の妻・呉纂の妻。同族には滕牧・滕皇后らがいる。
生涯[編集]
青州北海国劇県の出身[1][2]。後漢末の戦乱を避け、同郷で姻戚関係があった劉繇の下へ身を寄せた[2]。父は滕胤が12歳の時に死去し、滕胤は父と同じように孫権に仕え、222年に孫権が呉王に封じられると都亭侯に封じられ、20歳の時に孫権の娘(公主)を娶ることを許された[1]。そのため準皇族に列して30歳で丹陽郡太守となり[2]、以後も呉郡・会稽郡の太守を歴任する[1]。二宮の変では孫和を支持するが生き延び、252年に孫権が重病に倒れた際に太常に任命され、呂岱・諸葛恪・孫峻・呂拠らと共に後事を託される重臣の一人に列した[1]。
253年、諸葛恪が魏への遠征を行なおうとした際にはこれに反対して諫めたが聞き入れられず、予想通りに諸葛恪は大敗して戻ってきた後に孫峻によって殺害された[1]。滕胤は諸葛恪の子である諸葛竦の舅であることから連座を恐れて自ら辞職を申し出たが、孫峻は辞職を許さず[1]逆に重用したという。256年に孫峻が死去し、従兄弟の孫綝が権力を継承すると呂拠は重臣と連名の上で滕胤を丞相にするように孫亮に対して上奏する[1]。孫綝はこのため、丞相ではなく大司馬に任命して滕胤を建業から離れさせて武昌に赴かせることで対処しようとした[1]。呂拠はこの処置に不満で滕胤に対して孫綝を排除するために呼びかける書状を送るが、計画が孫綝に察知されて呂拠は孫憲らに攻められ、滕胤も華融と丁晏らを使者に送られて詰問され、滕胤は使者を軟禁して兵士を集めて守りを固めたので、孫綝の命令を受けた劉丞の攻撃を受けた[1]。このため滕胤は華融・丁晏らを殺害し、呂拠の援軍を期待して防戦するも呂拠は既に討伐されており、孫綝が送り出した大軍に遂に敗れて捕縛された上、一族も多くが殺された[1]。
この際に一族皆殺しという記述があるが、一族のうち滕牧・滕芳蘭らは辺境への流罪で済まされており[3][2]、皆殺しにはなっていない。
『三国志演義』では第108回で呉の太常卿として登場する。史実では仲が良かった諸葛恪と逆に不仲であるように描かれ、そのため孫峻の諸葛恪殺害にも積極的に協力したことにされている[1]。第111回で孫綝に殺された人物として名前が挙がるが、殺された経緯などは描かれていない[1]。