朱績
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朱 績(しゅ せき、? - 270年)は、中国の三国時代の呉の武将。字は公緒(こうしょ)[1]。父は朱然。義理の祖父は朱治。
生涯[編集]
揚州丹揚郡の出身[1]。父が高官だったため郎に任命され、さらに建忠都尉に任命される[1]。249年に父が死去するとその跡を継ぎ、平魏将軍・楽郷督に任命された[1]。253年に諸葛恪が孫峻により殺害された際には朱績も諸葛恪・諸葛融らと不仲だったことからその殺害に協力し、諸葛融を自殺に追い込んだ[1]。
父の朱然は孫権の時代に元の姓である施姓に復そうとしたが孫権から許可されなかったため、朱績は孫亮の時代である254年から256年の間に復姓の許可を上表してようやく復姓したという[1]。最終的に左大司馬にまで昇進した[1]。
『三国志演義』には登場しない。