顧雍
顧 雍(こ よう、168年 - 243年11月)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての呉の武将・政治家。字は元歎(げんたん)[1][2]。曾祖父は顧奉。祖父と父の名は不明。弟は顧徽。子は顧邵・顧裕(顧穆)・顧済。孫は顧譚・顧承・顧栄。
生涯[編集]
揚州呉郡呉県(現在の蘇州市)の出身[1]。蔡邕が江東に来た際に琴と学問を学んだ[1]。州や郡の役所から推挙されて合肥県令や会稽郡太守を歴任し(孫権が孫策の時代に会稽郡太守になった時に郡丞となり事実上の太守の仕事を代行した[2])、孫権に仕えて大理奉常や尚書令などに就任し、222年に孫権が呉王に封じられた際には陽遂郷侯に封じられ、後に醴陵侯に封じられる[2]。225年に孫邵が死去すると、後任の呉の丞相・平尚書事に任命された[1][2]。
顧雍は普段は物静かであったが、いったん口を開くと必ず的を射た発言をして宴会でも酒の上での過ちを顧雍に見られるのを恐れて周囲の者は羽目を外すことができず、孫権から酒がまずくなると嫌われていたと言う[1]。だが自分の感情に左右されず能力を優先して人材を任用するなど政治力には優れていた[1][2]。孫権が老いて呂壱という奸臣を重用し、この呂壱が権力を掌握して讒言されたことがあったが、後に呂壱の罪が明らかになり逮捕されると拷問などの報復をせず、弁明の機会を与え、法に照らして処刑した[1][2]。献策しても用いられた物は全て孫権の発案とし、用いられなかった物は公に出さないなどの配慮を心がけ、丞相在職19年という長期にわたり大いに治績を挙げて、243年に在職のまま死去した[1][2]。享年76。諡号は粛公[1][2]。
『三国志演義』では第29回で会稽郡の都尉として登場し、曹操の下から戻ってきたばかりの張紘の推挙を受けて孫権に仕えている[1]。張昭と並ぶ孫権の側近となり、赤壁の戦いでは曹操への降伏を唱えた[1]。劉備や関羽との戦いでは孫権にたびたび相談され、様々な進言をする[1]。夷陵の戦いでは陸遜の起用に反対したが、後にはその才能を認めて曹休との戦いでは陸遜の起用を薦めている[1]。第98回で孫権が皇帝に即位した際に丞相となっているため[1]、史実より4年遅い就任となっている。