孫策
孫 策(そん さく、175年 - 200年)は、中国の後漢末期の武将・群雄。三国時代の呉の事実上の2代目君主。父は孫堅。母は呉夫人。弟に孫権・孫翊・孫匡・孫朗。子に孫紹、顧邵妻、陸遜妻、朱紀妻。孫に孫奉。妻は不詳、妾に大喬。義兄弟に周瑜。字は伯符(はくふ)[1][2]。孫権が皇帝に即位した際に長沙桓王の王号を与えられている[1]。
生涯[編集]
少年期[編集]
孫堅の長男で少年時代から俊才で名を知られた。そのため周瑜をはじめとして同年齢で孫策を慕う者は多かった[1]。190年に孫堅が董卓討伐に参加すると、父の命令で周瑜の故郷である舒県に移住し、ここで周瑜と親しく交わり、さらに多くの名士と親交を結んだ[1]。192年に父が劉表討伐で戦死するとその遺骸を曲阿に葬り、徐州近くの江都に移住して194年に袁術の配下となる[1]。この際に孫策は父の兵力を返還してもらうよう袁術に申し入れ、袁術は言を左右にして返そうとしなかったが、ようやく袁術は1000人の兵力を孫策に返還したという[1]。その後、後漢の馬日磾の推挙で懐義校尉となる[1]。孫策の評価は非常に高く、袁術でさえ「我に孫策のような息子があれば」と言うほどだったが、袁術はあくまで孫策を利用する対象としてしか考えておらず、孫策に約束をしながら九江郡太守にすることを反故にしたりしたので、孫策は袁術に失望して独立を考えるようになる[1]。
江東制圧[編集]
当時、揚州刺史は後漢の皇族の劉繇であったが、劉繇は袁術と対立しており孫策の親族の呉景と孫賁を丹陽郡から追放する[1]。この救援を口実に孫策は袁術に兵力を与えるように申し入れたが、袁術が与えたのは1000余であった[1]。しかし周瑜の協力もあって兵力は増大してゆき、さらに劉繇との戦いで于糜・樊能らを次々と破り、当時劉繇の配下であった勇将・太史慈と互角の一騎討ちを演じている[1]。劉繇は遂に敗走し、続いて厳白虎も破ると孫策は自ら会稽郡の太守を称して江東をほぼ制圧した[1]。
その直後の197年に袁術が皇帝を自称したため、孫策は袁術との関係を断つ絶縁状を送りつけ、後漢から討逆将軍に任命され、呉侯に封じられた[1][3]。 。
北上の夢と最期[編集]
当時、後漢を牛耳っていた曹操は孫策の勢力を恐れ、一族の曹仁の娘を孫策の末弟・孫匡に嫁がせて婚姻・友好関係を結んだ[1]。200年に曹操が袁紹と官渡で対峙した際(官渡の戦い)、孫策は当時の首都である許昌を襲撃して献帝の身柄を奪おうと計画した[1]。しかしその直前に江東平定の際に殺害していた許貢の世話を受けていた食客らの襲撃を受けて致命傷を負う[1]。瀕死の孫策は生まれたばかりの息子・孫紹ではなく次弟の孫権を後継者に選び、張昭に孫権の補佐を任せ、孫権には「内政のことは張昭に聞け」と述べた[1]。その上で張昭に「孫権に器が無ければ、君が代わって立て」と遺言したとされる(『呉書』)。また孫権に対して「軍勢を動員し、天下の群雄たちと雌雄を決するということではお前は私に及ばないが、賢者の意見を聞き、才能ある者を用いて国を保っていくということでは、お前の方が私よりも優れている」と述べ、国王の印綬を孫権に渡し、孫策はその夜に死んだ[1]。享年26[1]。死因に関しては『捜神記』によると道士の于吉を殺害したのでその亡霊に悩まされて死んだと記録している。
三国志演義[編集]
『三国志演義』では第7回で初登場し、父の劉表攻めに従軍して少年ながら活躍している。しかし父が戦死したため、この際に捕虜にしていた黄祖の身柄交換でその遺体を取り戻し、江東に葬っている。袁術からの独立では父親と較べ不甲斐ない自分の境遇から脱しようとしたとされており、この際に父親から受け継いでいた玉璽を質にして3000人の兵力を借りている。孫策は武勇に優れた人物として描かれ、劉繇配下の于糜を絞め殺したり、樊能を大喝して落馬させるなどしている。その武勇と気性の激しさから項羽に喩えられて「小覇王」と呼ばれるようになる。その後、倍の兵力を返還することを条件にして袁術に玉璽の返還を申し出るが、袁術が受け入れなかったので孫策は袁術との関係を断って曹操・劉備・呂布らと共に袁術を討伐した。第29回で史実どおり許貢の襲撃にあって重傷を負うが、この際は華陀らの治療もあって健康を取り戻す。しかし于吉を殺害したことでその亡霊に悩まされて再び傷が悪化し、史実のように孫権に遺言を与えて死んだ。
人物像[編集]
孫策は極めて魅力的な人物だったといわれている。袁術の下に雌伏していたにも関わらず張昭や呂範、孫河と優秀な人材が配下に加わったこともそれを証明している。『呉書』には「秀でた容姿を備え、談笑を好み、性格は闊達で、他人の意見をよく聞きいれ、適材適所に人を用いた。そのため士人たちも民衆たちも、彼に会ったことのある者は、全て誠心誠意、命を賭けて彼のために働きたい、と願った」と記されている。
また、袁術の下にあった際、張勲ら袁術配下の武将から尊敬を集めていたという記録もある[4]。