陸遜

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陸 遜(りく そん、183年 - 245年)は、後漢から中国三国時代にかけての武将政治家。初名は陸 議(りく ぎ)[1]。字は伯言(はくげん)[1]陸続の玄孫、陸襃の曾孫、陸紆の孫、陸駿の子。弟に陸瑁。子に陸延陸抗。孫に陸機陸雲。夫人は孫氏(孫策の娘)[2]

生涯[編集]

若い頃[編集]

陸氏は呉県(現在の江蘇省蘇州)を地盤とする代々の豪族である[1]。陸遜は早くに父が死去したため、従祖父にあたる廬江郡太守陸康の下に身を寄せて成長した[1]。陸遜は若い頃から統率力に定評があり、かねてより陸康に対して遺恨を抱いていた孫策が、袁術の配下として軍勢を率いて廬江に攻め込んできた時には、陸康の息子に代わって陸遜が一族郎党をまとめて、江南の地に連れ帰った[1]。21歳の時から孫権に仕え、地方統治に際立った業績を挙げ、山越族討伐では軍事的手腕を発揮して孫権幕下でたちまち頭角を現し、孫権は陸遜の能力を評価して姪(孫策の娘)を彼に与えた[3]

陸遜には並外れた度量があったことで知られる。会稽郡で山越族の討伐に従事していた時、太守から陸遜が不法に民衆を徴用していると孫権に訴えられた事があった[3]。孫権は必要事であるとして不問としたが、その後に会稽郡太守の行為が逆に問題視された時に当の陸遜がその太守の行為を称賛して庇った[3]。孫権はその訳を聞くと「彼の立場を考えれば、そうしたのは当然のことです。非難合戦の泥仕合はしないものでどこかで断ち切らねばなりません」と答えたとされ、孫権は「これこそ立派な人格者にして初めてできることで、誰もができることではない」と褒め称えたという[3]

219年関羽との関係が悪化し、孫権は呂蒙荊州奪取を命じ、呂蒙は陸遜の才能を見込んで自分の傘下に組み入れた。陸遜は呂蒙に「関羽は向こう気の強い性格で他人に対し人を人とも思わない振る舞いを致してきました。いま于禁を捕らえる功を立て、心を奢り志は膨らんで、ひたすら北へ軍を進めることばかりに力を注ぎ、我が呉のほうに対しては警戒はしていません。貴方の病気が重いという知らせを聞けば、ますます無防備になることは違いありません。今、彼の不意をつけばやすやすと関羽を手中にすることができます」と進言し、その進言は呂蒙に受け入れられた[4]。呂蒙は「伯言はその心ばせは広く深く、才能は重任に耐えるものであって、彼がめぐらす将来への計画の周到さを見ましても、十分に大事を任せることができます。しかも陸遜の名は対外的にそれほど伝わっておらず、関羽からも警戒されておりません。彼をお用いになりますならば、外に対してはその意図を秘め隠させ、密かに形勢が有利になるのを窺うようにとお命じ下さい。そうすれば、関羽を打ち破ることもできましょう」と述べた[4]。陸遜は病気と称した呂蒙の代わりに荊州に赴任すると、関羽に対しひたすら敬愛の情を示し、遜る気持ちを前面に押し出して見せた[4]。関羽は陸遜の芝居にすっかり騙されて呉に対する警戒心を解いてしまい、それを見た陸遜と呂蒙は関羽不在の江陵に攻め込み、そこを抑えた[4]。呂蒙はさらに陸遜に一軍を与えて西進させ、宜都(現在の湖北省宜昌)を抑えさせた[5]。この地域は益州から劉備の援軍が来た場合に迎撃するための要地であり、ここは蜀の影響力が強かったが陸遜はここの地元勢力を手なずけて平定に成功した[5]

社稷の重臣[編集]

後詰を望めず、曹操からの援軍も来て孤立した関羽は呉に捕縛されて処刑され、荊州は呉の支配下になった。しかし呂蒙も同年末に死去した。このため、陸遜が荊州の占領政策に尽力した[5]。旧蜀の荊州家臣は改めて呉の家臣として召し抱えられたが、ほとんどが能力にふさわしい地位を与えられずに放置されていたため、陸遜は孫権に「高祖光武帝も王朝を開いた時、非凡な人物たちを招き集めることに努め、道義と教化とを盛んにすることができたのです。今荊州は平定されたばかりでこの地の人材は能力にふさわしい地位を得て、十分に腕を振るうことができずにおります。臣が心からお願い申し上げますのは、どうか天地のごとき広大なご恩恵を加えて彼らを抜擢し、他の者と同様に十分にその能力を振るえるようにしてやっていただきたいということでございます」と上奏し、孫権もこれを容れて荊州の人材を大量に登用した[5]

222年、関羽の復仇に燃える劉備が軍勢を率いて東進してきた。陸遜は呉軍の総司令官に抜擢されたが他の宿将に較べて若年だったためその命令は徹底されなかった[6]。陸遜は諸将を集めると剣の柄に手をかけて「劉備は天下にその名を知られ、曹操ですら恐れ憚った豪の者だ。その容易ならざる敵と対峙している。諸君はみな国恩を受けている身であって互いに心を合わせ、共同してこの外敵を除き去って蒙ったご恩に報ずるべきであるのに、かえって互いに意地の張り合いばかりをしている。言語道断である。私は一介の書生に過ぎないが、命令を主上から受けておる。主上が諸君をわざわざ私の指揮下に入れられたのは、私にいささかなりともその任にふさわしい才能があり、耐え忍びつつ責任を負うことができるとお考えになったからだ。各人がそれぞれ与えられた職務を果たしておるのであって、どうしてそれについて文句など言ってよいものだろうか。軍令は断固として不変のものであり、それを犯してはならないのだ」と述べた[7]。陸遜を若造と侮っていた諸将は、その気迫に圧倒され以後は指揮に心服した[7]。孫権の準一族である孫桓が蜀軍に包囲されて陸遜に救援を求めてきた際、諸将は援軍を出すように主張したが陸遜は反対し「孫桓殿は兵士達の心をつかんでおられ、その守備は堅く、食糧も十分であり、心配な点は全くない。わざわざ援軍を送らなくとも、間もなく孫桓殿は囲みを解いて帰還なされるであろう」と述べた。陸遜の言う通り、孫桓は程無く帰還した[8]。こうして呉軍の統率を確固たるものとし、蜀軍と長期対峙して打ち破る大功を立てた(夷陵の戦い)。

223年に劉備が死去すると蜀の全権は諸葛亮が握り、蜀は孫権と同盟を結んで魏と対抗しようとした。孫権は対蜀外交を荊州に駐在する陸遜に移管するため、自分の印璽を彫って陸遜に預けて自由に使用させた[8]。また書簡の往来についてもその内容の重点の置き方や全体の可否について何か問題があれば、その場で訂正を加えさせ、印璽で書簡に封印して蜀に送らせるという君主と変わらない権限まで与えた[8]

孫権が武昌から建業遷都した際、陸遜は皇太子孫登や他の皇子らと武昌に留まり、彼らの補佐や養育に努めた[8]。孫権の子・孫慮が闘鴨に凝って屋敷の中に木柵の飼育小屋を設け、手の込んだ仕掛けをいくつもつけていたが、これに対して陸遜は孫慮に対し「君侯たる者、努めて経典を読み、常にご徳性を磨かれるべきでありますのに、何のためにこのようなものを作られたのでありましょう」と諌めた[8]。孫慮はすぐに自分のしている過ちに気付いて直ちに闘鴨飼育用の小屋を取り壊した[9]射声校尉孫松は一族の中でも孫権が特に目をかけていたが、それをいいことに兵の訓練を怠っていたので、陸遜は係の役人を髠刑(頭を丸坊主にする刑)に処した。これにより孫松は兵の訓練に本気で取り組んだ[9]

また、孫登の守役が刑罰を優先し、礼を用いるのはその後にすべきだという魏の曹操の家臣・劉廙の議論を称賛していたが、陸遜は「礼が刑罰に優先するのは、古い昔からのことだ。劉廙は小賢しい議論で先賢の教えをたばかろうとしておるが、それは根本的に間違っておる。皇太子にお仕えしておるのであるから、仁と義とに基づいた徳にあふれる言葉をはっきりとお伝えすべきであり、そのような議論を皇太子にお聞かせしてはならない」とその守役を叱りつけた[9]

陸遜は中央から離れていても呉の重鎮として、孫権はその意見や主張の多くを受け入れた[9]

最期[編集]

241年、皇太子の孫登が早世し、呉で次の皇太子をめぐる争いが起こった[9]二宮事件)。陸遜は長幼の序を尊重して孫和を支持し、孫和の弟で魯王である孫覇を擁立する派閥と対立した。陸遜は内訌を早々に終結させるために上奏して孫権に孫和の正統性を主張したが、孫権は既に老耄しておりこの意見を無視した[9]。陸遜は4度上奏して[9]、建業に出て孫権と直接話したいと願い出たが、孫権はそれを許さなかったため、陸遜は憂悶のうちに245年、武昌で憤死した[10]。享年63[10]

人物像[編集]

陳寿は陸遜のことを「夷陵の戦いの時、陸遜は壮年に達したばかりで天下の英傑劉備を相手にした。だが勝利を収め、思い通りに事を運ぶことができた。陸遜の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく他人の才能を見抜いた点も見残してはならない。陸遜の生きざまこそ、社稷の臣と呼ぶにふさわしい」と評価している。

小説『三国志演義』では諸葛亮の方が優れた人物であることを強調するために、夷陵の戦いに勝利して劉備を追撃する際に白帝城の手前の漁腹浦で諸葛亮の作った「八陣図」の石陣に迷い込んで危うく水に追い込まれて死ぬところだった、とされている。演義では憤死のところは描かれていない。

脚注[編集]

  1. a b c d e 伴野朗『英傑たちの三国志』、P134
  2. 正室並びに継室側室のいずれかに該当するかは不明。
  3. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P135
  4. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P136
  5. a b c d 伴野朗『英傑たちの三国志』、P137
  6. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P138
  7. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P139
  8. a b c d e 伴野朗『英傑たちの三国志』、P140
  9. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P141
  10. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P142

参考文献[編集]