孫峻
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孫 峻(そん しゅん、219年 - 256年)は、中国の三国時代の呉の皇族・武将・政治家。字は子遠(しえん)[1]。孫堅の弟の孫静の曾孫。祖父は孫暠、父は孫恭。
生涯[編集]
武勇に秀でていたため早くから孫権に寵愛された[1]。孫権の晩年に侍中に任命され、二宮の変では孫和の廃太子を孫権に進言した[1]。252年に孫権が崩御した後は幼帝の孫亮を諸葛恪・滕胤らと共に補佐する[1]。しかし諸葛恪が専横を極めると253年に孫亮と協力して諸葛恪を酒宴に招いて斬殺し(建興の変)、丞相・大将軍・富春侯となって呉の権力を掌握した[1]。この際、政敵の多くを処刑し、宮女を犯し、孫権の娘である孫魯班と密通するなど暴虐がひどくなった[1]。
孫峻自身には見るべき治績も能力も無く、「峻、素より重名なし。驕矜険害にして、刑殺する所多く、百姓轟然たり」(『呉書』孫峻伝)と記録されている。
254年に皇族の孫英が孫峻誅殺計画を、255年には孫儀・林恂らが孫峻誅殺計画を画策するが、いずれも未遂で失敗し自殺させられた[1]。256年に魏の降将・文欽の進言を受けて魏に侵攻するが、失敗して途中で撤退する[1]。その後間もなく諸葛恪に殴られる夢を見てその恐れの余り病気になって死去[1]。享年38。跡を従兄弟の孫綝が継いだ。
後に孫綝が孫休に殺害されると、孫峻の墓は暴かれて副葬されていた印綬は奪い取られ[1]、その棺を削って埋められた(当時、棺の厚さは位階によって差があり、棺材を削ることは降級を意味する)。
『三国志演義』では第108回に登場し、諸葛恪の殺害などが描かれているが、史実ほどの暴虐は描かれていない。