陸凱
陸 凱(りく がい、198年 - 269年)は、中国の三国時代の呉の武将・政治家。字は敬風(けいふう)[1][2]。弟に陸胤。甥に陸式。子に陸禕。呉の丞相として斜陽の呉を支えた名臣として知られている。
また、三国時代の武将としては珍しく生没年がはっきりしている。
生涯[編集]
呉郡呉県(現在の蘇州)の出身[1]。陸遜の族子と言われる[1]。孫権の時代から呉に仕え、永興県の県長や太守など地方官を歴任して治績を挙げた[1]。軍隊を預かるようになってからも書籍を片時も離すことはなく、『太玄経』を愛読して占いにも精通したという[1]。
252年の孫権の没後は孫亮に仕え、255年には山越族の不服従民族を討伐した功績により巴丘都督・偏将軍に任命され、都郷侯に封じられる[1]。その後も要職を任命された[1]。258年に孫亮が廃された後は孫休に仕えて征北将軍に任命され、仮節を与えられて豫州牧も兼任することになる[1]。
264年に孫休が崩御して孫皓が即位すると、鎮西大将軍・巴丘都督・荊州牧に昇進して嘉郷侯に封じられる[1]。265年に魏が滅亡して西晋が成立すると、孫皓は西晋と和睦するために丁忠を司馬炎(武帝)の下に派遣したが、帰国した丁忠が弋陽を攻撃すれば奪取できると発言したので、陸凱はこれに反対して諫めて中止させた[1]。266年に左丞相に任命され、同年に大司馬の丁奉や御史大夫の丁固、左将軍の留平と共に孫皓を廃する計画を立てるが、留平が賛同しなかったので未遂に終わった[1]。以後、陸凱が暴政を繰り返す孫皓を何度も諫め、孫皓を恐れずはばかることなく民政の安定に心を砕き、20項目における諫言を行なったという[1][2]。孫皓は陸凱を次第に疎んでいったが、陸氏の強大な勢力と軍事力を恐れて手を出すことができなかった[1]。269年に死去。享年72。
陸凱の死から5年後、陸凱に代わって呉を支えていた同族の名将・陸抗も死去して陸氏に優れた人材が無くなると孫皓の報復が行なわれ、275年に子の陸禕ら陸氏一族は交州へ強制移住させられた[1]。
『三国志演義』では最終回で登場し、孫皓の暴政を諫める上奏をしたが聞き入れられずに終わっている[1]。