孫皓
孫 皓(そん こう、242年 - 284年)は、中国の三国時代の呉の第4代、最後の皇帝(在位:264年 - 280年)。字は元宗(げんそう)[1]。
生涯[編集]
父は孫権の3男で廃太子となった孫和[1]。母は何氏[1]。253年に父と正妻の張氏が自殺したため、生母の何氏によって養育された[1]。孫休の時代に鳥程侯に封じられる[1]。
264年、孫休が崩御する際、その遺言で後継者は孫𩅦と定められていたが、丞相の濮陽興は遺嘱を裏切って孫皓を新帝として即位させた。『江表伝』によると孫皓は即位当初は思いやりがあって善政を敷き、極めて評判がよかったという。
しかし次第に残虐な馬脚を現し、性は粗暴で驕慢で、肝っ玉が小さい上に執念深く、浪費癖もあり華美な宮殿を造営して巨額の金を湯水のように使い、怨嗟の声が呉の全土に満ち満ちた。酒と女にも溺れて国政を顧みることは無く、自分の即位に協力した濮陽興と張布がそのことに後悔していると聞くと激怒して2人を殺した[1]。さらに孫休の遺児や泥酔して不用意な言動のあった重臣を次々と殺害して顔面を剥いだり目を抉ったり、残虐な行為を繰り返した[1]。このような中で呉の国内でも反乱が頻発する。
280年、西晋の武帝が討呉の軍を起こすと抵抗するが、最早弱体化した呉軍は防げず孫皓は降伏し、ここに呉は滅亡した[1](呉滅亡)。武帝は孫皓を許して帰命侯に封じ、孫皓は284年に洛陽で死去した[1]。享年43。
『三国志演義』では第120回の締めくくりで、暴虐な皇帝として登場している。
人物像[編集]
陳寿は孫皓を「度し難い悪人」で「(武帝が)殺さず侯に封じたのは度を過ぎた寛大さ」と酷評している。
『世説新語』によると西晋に降伏後、司馬炎とその娘婿の王済が孫皓の前で碁を打っている時、「どうして人の顔の皮を剥いだのかね?」と司馬炎が尋ねると、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めたという話が残っている。これは『三国志演義』においては王済が賈充に変えられ、賈充も司馬昭の時代に曹髦を殺しているため孫皓の言葉を聞いて自分の主君を非難することになると気付いて恥じ入ったことに変更されている。