孫登 (呉)
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孫 登(そん とう、209年 - 241年)は、中国の三国時代の呉の皇族で皇太子。字は子高(しこう)[1]。父は孫権で長男。子は孫璠・孫英・孫希。妻は周瑜の娘。芮玄の娘。
生涯[編集]
孫権の長男であるが生母の身分が低かったため、徐夫人に養育された[1]。孫権が呉王になると東中郎将の地位を授けられ、後に王太子、皇太子になる[1]。孫登は器が大きく、諸葛恪・張休・陳表・顧譚らと親友となり側近として登用し、学問や乗馬、射撃などを一緒に学んだ[1]。非常に聡明で父をよく補佐したが、241年に33歳の若さで死去した[1]。
孫登の早世は、呉に二宮の変という後継者争いを生む悲劇につながった[1]。
『三国志演義』では徐夫人の実子とされており、皇太子に立てられた事と早世した事だけが触れられている。