楊竺
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楊 竺(よう じく、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の武将。兄が少なくとも1人いた。
生涯[編集]
揚州広陵郡の出身[1]。呉で二宮の変が発生すると魯王・孫覇を擁立して皇太子・孫和派と対立する。余り人物は良くなかったのか、孫和派の陸遜から楊竺の兄に対して楊竺と絶縁するように書状を送られたりしている。楊竺は孫覇を皇太子にするために孫権と密談するが、この密談が陸胤を通じて陸遜に漏れたため、孫権は機密が漏れたとして激怒し楊竺に調査を命じ、楊竺は陸胤を取り調べるが、陸胤が楊竺が機密を自分に教えたと自白したためかえって自分が逮捕される事になり、取り調べという名の拷問で陸胤の自白を認めたので、楊竺は罪に問われて腰斬の刑に処された上、遺体は長江に遺棄されたという。
ただしこの場合だと処刑が陸遜が死去する245年までに行なわれた事になり、辻褄が合わない部分もある。一説に250年、二宮の変の解決に動いた孫権により魯王派の重鎮と見なされて処刑されたとする説もある[1]。
なお、陸遜が憤死する20条の疑惑を弾劾したのは楊竺である。