韋昭

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韋 昭(い しょう、? - 273年)は、中国三国時代政治家儒学者歴史家弘嗣(こうし)[1]。子は韋隆

生涯[編集]

揚州丹陽郡雲陽県(現在の江蘇省丹陽市)の出身[1]。『三国志』「呉書」では韋曜(いよう)と記載されている[1]。これについて、裴松之は注の中で、司馬昭が同じであることを避けるための避諱とするが[1][2]、元々「韋曜」という名も持っていたのであろうとする説も存在する。

若い頃から学問を好んで立派な文章を書き、丞相府の役人から西安の県令[2]尚書郎[2]そして太子中庶子に昇進する。孫権皇太子であった孫和の命令で『博奕論』を著した[2]

孫亮即位すると諸葛恪の推挙[2]を受けて太史令となり、華覈薛瑩らと共に『呉書』の編纂を担当した[1]。これは陳寿の三国志の注釈でも採用されている[1]

孫皓の時代には高陵亭侯・中書僕射[2]侍中左国史に昇進し、孫皓主催の宴会では必ず7升のを飲むことを義務付けられていたが、韋昭のみは下戸であるのを理由に途中で茶に切り替えることなどが許されるなど当初は寵愛されていた[2]。しかし非道な行ないが目立つ孫皓にたびたび正論を吐いたために疎まれて遂には投獄され、華覈の弁護もむなしく処刑された[1]。これには韋昭が編纂した『呉書』の編集方針に関して孫皓が異を唱え、韋昭が全ての職を辞して編集に専念したいと申し出たが許されず、無理やり酒を飲まされて反抗的として逮捕され、処刑されたとする説もある[2]

著書に『注論語』『洞記』『官職訓』『弁釈名』『国語注』など多数あり[2]、三国志を代表する学者の一人であった。

三国志演義』には登場しない。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 小出『三国志武将事典』P340
  2. a b c d e f g h i 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、5頁

参考文献[編集]