孫和

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孫和
そんわ / そんか
登場作品 三国志
性別 男性
時代 弥生時代
生年月日 224年
生誕地
死没日 253年
肩書き 皇族

孫 和(そん わ、あるいは、そん か、224年 - 253年)は、中国三国時代皇族子孝(しこう)[1]

生涯[編集]

父は呉の初代皇帝である孫権で3男[1]。母は王夫人(瑯邪)。第2代皇帝の孫亮、第3代皇帝の孫休は異母弟に当たる。異母兄に最初の皇太子であった孫登孫慮。他の弟に孫覇孫奮ら。妻は張承の娘・何姫何植の姉)・女(孫謙の母)。子は第4代皇帝の孫皓孫徳孫謙孫俊

生まれつき利発だったため、幼少時から孫権に愛された[1]。いつも孫権の傍にいることを許され、衣服や彼に対する待遇、精巧で珍しいものが下賜される場合にも他の子供とは比較にならぬ立派なものが与えられた[1]。孫和は文芸を好んだが、騎馬や弓矢にも巧みで師匠の指導のもとで学問にも努め、正確な見識と鋭い頭の働きを備え、師匠らを尊敬し、才能ある人物に目をかけるのが常だったという[1]

次兄の孫慮は早世し、皇太子で長兄の孫登は241年に早世した[1]。このため242年1月に19歳で孫権の皇太子に立てられた[1]。ところが当時、既に老耄していた孫権は孫和の弟であった孫慮を同年8月に魯王に立てて同じ宮殿に住まわせ、待遇の面でも二人に区別しなかった[2]。このため、呉で皇太子の座をめぐる内紛が発生する[2]二宮の変)。この内紛は8年間も続き、その間に呉の貴重な人材の多くが死んでいった。250年、孫権は内紛を解決させるため、孫和を皇太子から廃して孫亮を新しい皇太子に立てた[3]

252年南陽王とされた孫和は長沙に幽閉された。孫権の死後、呉の実権を握った諸葛恪は孫和の正妻の張氏の縁戚(舅(おじ)と姪の関係)であったため、孫和の待遇を改善しようと慰めの言葉をかけた。また、遷都をするため旧都である武昌の宮殿を整備させた。諸葛恪のこれらの行動は孫和の復権の野心と見做され、翌253年に諸葛恪の誅殺後に実権を握った孫峻は、亡き諸葛恪のこうした言動に言掛りを付けて孫和から王の印綬を取り上げ、新都に強制移住させた上で自殺を命じた。正妻の張氏は孫和と共に自殺した。享年30。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P109
  2. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P110
  3. 伴野朗『英傑たちの三国志』、P112

参考文献[編集]

関連項目[編集]