呂岱
呂 岱(りょ たい、161年 - 256年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての呉の武将。字は定公(ていこう)[1][2]。子は呂凱。
生涯[編集]
徐州広陵郡海陵県の出身[1]。最初は郡や県の役人を務める[1]。しかし戦乱を避けて郷里の南に移住し、孫権に出仕して呉県の丞に任命される[1]。余姚県長の時に不服従民であった呂合と秦狼を討伐して捕縛し、この功績により昭信中郎将に昇進する[1]。211年に劉備が益州に入ると、呂岱は張魯と挟撃して劉備と戦おうと画策するが、張魯が応じなかったために2000の兵を率いて漢水を戻る事になった[1]。220年には交州刺史に任命され、226年に交州の重鎮である士燮が死去すると、呂岱は士一族の分裂に巧みに介入し、士一族の大半を捕らえて処刑し、交州を完全に呉の領土とした。その後、交州から南下して現在のベトナムの九真郡を討伐する。さらに武陵蛮、廬陵、会稽、南海での反乱を悉く鎮圧した[1]。
240年には廖式の反乱を鎮圧する[1]。二宮の変が起こると孫覇を支持して魯王派に属したとされるが、高齢のためか積極的に政争に参加したような活動は見られない。245年に陸遜が憤死を遂げると、諸葛恪と共に陸遜が保持していた軍権を分割して与えられ、さらに上大将軍に昇進する[1]。252年に孫権が崩御する際には諸葛恪・呂拠らと共に幼少の孫亮を託された[1]。
孫亮の時代には軍事の最高位である大司馬に任命される[1]。256年に96歳という驚異的な高齢をもって没した[1]。
呂岱は魯王派に属したために後世からの批判もあるが、自身は常に質素に務めたという[1]。また、記録にある呉の武将の中では最も長寿の人物である[1]。
『三国志演義』では第108回の孫権の臨終の際に登場するが、この時に既に大司馬に任命されており、諸葛恪と共に後事を託されている[1]。以後は登場しない[1]。