孫魯班
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孫 魯班(そん ろはん、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の公主。字は大虎(たいこ)[1]。父は孫権。母は歩夫人。全公主[1]、大公主と呼ばれる。同母妹は孫魯育。兄弟に孫登・孫慮・孫和・孫覇・孫休・孫奮・孫亮。最初の夫は周循。2番目の夫は全琮。子は全懌・全呉。讒言・密通と実質的に呉を傾けた悪女として有名である。
生涯[編集]
孫権の娘で、最初は周瑜の子・周循に嫁いだ[1]。しかし周循が早世したため、孫権の重臣で衛将軍の地位にあった全琮と再婚し、このため全公主と呼ばれる[1]。弟の孫和とはかなり仲が悪かったようで、孫権が孫和を皇太子にした際に孫和の生母である王夫人を皇后に昇格させようとした事に反対し、徹底的な讒言を繰り返したという[1]。同時期に始まった二宮の変では孫覇の魯王派に属して孫和の皇太子派と対立し、皇太子派の重鎮である陸遜や張休らを讒言で陥れるのに協力した[1]。
252年に孫権が崩御すると孫峻と密通して廃太子になっていた孫和を自殺させた[1]。孫峻の死後、孫綝が政権を掌握して専横を振るうと、皇帝の孫亮は孫綝の暗殺を計画し、孫魯班は孫亮との関係が良好だったのでこの計画に加担するも、失敗して豫章郡に流罪とされた[1]。
没年は不明だが、孫和の子・孫皓は皇帝になった際にかつて二宮の変で孫和を支持した者の復権と対立した者の粛清を行なっており、その粛清の中に彼女の名前が無いため、少なくとも264年までには死去していた可能性がある。
『三国志演義』では孫和を讒言して死去に追い込む時にのみ登場している[1]。