吾粲
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吾 粲(ご さん、? - 245年)は、中国の三国時代の呉出身の政治家・武将である。字は孔休(こうきゅう)[1][2]。
生涯[編集]
揚州呉郡鳥程県の出身[1][2]。貧しい寒門階級の出身だった。最初は孫一族の孫河の下級役人として仕える[1]。顧雍の子・顧邵に才能を認められて取り立てられ[3]、曲阿の丞や長史と栄進してゆきいずれも治績を挙げた[1]。
孫権が車騎将軍の時に家臣となり、主薄・山陰県令・参軍校尉と昇進する[1]。一方で222年には魏軍との戦いに参加して呂範や賀斉らと共に曹休軍を破ったり[2]、呂岱と共に山越族を討伐したりと活躍した[1]。以後も会稽郡太守や昭儀中郎将などを歴任する[2]。
243年に闞沢が死去したため、後任の太子太傅となって孫和に仕える。しかしこれは二宮の変で孫和を支持する事にもなり、吾粲はかつて自分を取り立ててくれた顧邵の子・顧譚らと協力して孫和の正当性を訴えた。しかし陸遜に過剰な情報を送ったり、正当性を示すために檄文を作成したりとやりすぎの感は否めず、これが逆に孫覇派の孫弘らに付け込まれて孫権に讒言されて逮捕の上、獄中送りとなる。結局、同志であった陸遜が憤死した前後に獄死とも処刑とも言われる最期を遂げた。
『三国志演義』では第38回で孫権が招聘した人材の一人として名前が登場するのみである[1]。