諸葛瑾
諸葛 瑾(しょかつ きん、174年 - 241年)は、中国の後漢末期から三国時代の呉の政治家・武将。字は子瑜(しゆ)[1]。父は諸葛珪。叔父に諸葛玄。子に諸葛恪、諸葛喬、諸葛融。弟は蜀漢の丞相・諸葛亮で、次男の諸葛喬は諸葛亮の養子となっている。他の弟に諸葛均。
生涯[編集]
徐州琅邪国(琅邪郡)陽都県(現在の山東省沂南県)の出身[1]。若い頃、首都洛陽に出て遊学し、学問を学んだ[1]。生母が死ぬと喪に服して孝を尽くし、継母にも慎み深く仕えた[1]。父が死ぬと弟と別れて曲阿(現在の江蘇省丹陽)に移住し、孫権の姉婿の推挙を受けて孫権に仕えた[1]。
諸葛瑾は孫権を諫言する際、決して強い言葉を用いなかった[1]。思うところをわずかに態度に表し、主張の大よそを述べただけでもし孫権に受け入れられぬようであればそのままにして他の話に移し、やがてまた他の事に託して意見を述べ、物にたとえて同意を求めた[1]。そのため孫権の気持ちも往々にして変わることが多かった[1]。諸葛瑾はたびたび劉備の蜀の使者として派遣されることが多かった[1]。そのため実弟の諸葛亮を通じて内通しているのではないかと疑われることがあったが、孫権の信任は全く揺るがなかった[1]。孫権は諸葛瑾との信頼関係の厚さについて「孤と子瑜とは、死生不易の誓いあり。子瑜の孤に負かざるは、なお孤の子瑜に負かざるがごとし(諸葛瑾とは死んでも変わらぬ誓いを交わした仲であり、諸葛瑾に限って私を裏切ることは決してない。私が諸葛瑾を裏切らないように」(『呉書』諸葛瑾伝)と自ら語っている。
諸葛瑾は決して弟の諸葛亮を私的に訪れるようなことをしなかった[2]。215年に孫権と劉備との間で荊州領有問題が起こると、その交渉の全権に諸葛瑾が選ばれた[2]。蜀の全権は諸葛亮で、実弟と協議して荊州を湘水の流れに沿って東西に分けることで決まった[2]。次男の諸葛喬を弟の養子にしていたが、我が子とも私的に会うことはなく、諸葛瑾は公私のけじめが厳しかった[2]。
諸葛瑾は戦場に出ることもあったが、無理な戦いをして犠牲者を出すことは無かった[2]。作戦の大局を掴み、全体のロスを考えて常に行動した[2]。
241年に68歳で病死[2]。死に臨んで白木の棺に普段着のまま納め、葬儀は簡略を心がけて葬るように遺言した[2]。嫡子の諸葛恪が跡を継いだ。
諸葛瑾はこの嫡子の将来に危惧を抱いていた。余りに才気走るところがあったため、「元遜の代に我が家は滅びるだろう」と述べていたという[3]。諸葛瑾の死から12年後の253年、諸葛恪は魏出兵の失敗で非難を浴びて一族もろとも殺害された[3]。
人物像[編集]
実弟に諸葛亮という天才がいるため、諸葛瑾の存在感は極めて薄い。ただし他国者で何一つ後ろ盾が無かった諸葛瑾が孫権から絶大な信任を得ている点は注目に値する。
『呉書』諸葛瑾伝注においては、「才略は弟(諸葛亮)に及ばずと雖も、徳行は尤も純なり」と評している。能力では諸葛亮に及ばないが、人柄に関しては上回っていると評しているのである。