連署
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連署(れんしょ)とは、鎌倉幕府における役職である。執権を補佐する幕府におけるナンバー3で、事実上の副執権であった。
概要[編集]
承久の乱から3年後、第2代執権の北条義時が死去すると、未だ幕府における北条氏の支配体制が完全に固まっておらず、事実伊賀氏の変という政変も勃発した。この事態に、幕府の初代征夷大将軍であった源頼朝の未亡人で、義時の姉に当たる北条政子は、義時の庶長子である北条泰時を第3代執権に擁立すると、その泰時の補佐役として政子・義時の弟である北条時房を連署に任命した。これが連署の起源と言われているが、近年では異説も存在する。
連署は形式上は征夷大将軍・執権に次ぐナンバー3の重職で、北条氏の世襲とされていた。執権を補佐するのが主な役割であるが、執権によっては設置されなかった場合もある。また、執権になるまでの訓練のためにあえて連署に就任してから執権に、という場合もあった。なお、源氏将軍断絶後は将軍とはあくまで形式的な存在に過ぎなかったため、連署は事実上はナンバー2の権力者であった。
嘉元の乱を過ぎ、内管領が幕府中枢を握ると、連署はしばらく北条家庶流の有力者が執権の前に就くポジションとなり、得宗家の後見的なポジションとなっていった。
鎌倉幕府滅亡まで連署の職は存続し、幕府滅亡と運命を共にした。
鎌倉幕府の連署一覧[編集]
注:日付は旧暦
- 北条時房 元応3年(1224年)6月28日~仁治元年(1240年)1月24日 <得宗[1]>
- 北条重時 宝治元年(1247年)7月27日~康元元年(1256年)3月11日 <得宗、極楽寺流祖>
- 北条政村 康元元年(1256年)3月30日~文永元年(1264年)8月11日 <得宗、政村流祖>→執権→連署再任。
- 北条時宗 文永元年(1264年)8月11日~文永5年(1268年)3月5日 <得宗>→執権
- 北条政村(再任) 文永5年(1268年)3月5日~文永10年(1273年)5月27日
- 北条義政 文永10年(1273年)6月17日~建治3年(1277年)4月4日 <極楽寺流、塩田流祖>
- 北条業時 弘安6年(1283年)4月16日~弘安10年(1287年)6月18日 <極楽寺流、普恩寺流祖>
- 大仏宣時 弘安10年(1287年)8月19日~正安3年(1301年)8月23日 <大仏流[1]>
- 北条時村 正安3年(1301年)8月23日~嘉元3年(1305年)4月23日 <政村流> 嘉元の乱で討たれる。
- 大仏宗宣 嘉元3年(1305年)7月22日~応長元年(1311年)10月3日 <大仏流>→執権
- 北条煕時 応長元年(1311年)10月3日~正和元年(1312年)6月2日 <政村流>→執権
- 金沢貞顕 正和4年(1315年)7月12日~嘉暦元年(1326年)3月16日 <金沢流>→執権
- 北条維貞 嘉暦元年(1326年)4月24日~嘉暦2年(1327年)9月7日 <大仏流>
- 北条茂時 元徳2年(1330年)7月9日~元弘3年(1333年)5月22日 <政村流> 鎌倉幕府滅亡。