陰陽連絡路線
陰陽連絡路線(いんようれんらくろせん)とは、山陽地方と山陰地方を結ぶ路線の総称である。
陰陽連絡線とも言う。
定義[編集]
本州の中国地方は、地形上中国山地によって日本海側と瀬戸内海側の2つに分かれており、瀬戸内海側は山陽地方、日本海側は山陰地方と呼ばれる。このことから、中国地方を「陰陽」と称することもある。
山陽地方側に大きな都市や文教施設が充実した都市が多かったため、山陽と山陰の間には一定の流動があった。山陽と山陰を結ぶという意味での「陰陽連絡」という言葉自体は古くから存在し、1918年12月17日付けの大阪朝日新聞広島山口版では「陰陽連絡鉄道」という語句が記事の見出しに使用されている。また、交通関係の各種文献においても「陰陽連絡」という語句が使用されているほか、第四次全国総合開発計画の中にも「陰陽連絡自動車道」が含まれており、日本の中国地方における交通について広く使用される語句であることが伺える。
これらのことから、鉄道線であれば「陰陽連絡鉄道」、バスであれば「陰陽連絡バス」と、路線の使命を説明する際に陰陽連絡という語句が使用されることが多い。本項では、主に鉄道の路線について記述し、呼称は表題の「陰陽連絡路線」で統一する。
鉄道[編集]
山陰本線(京都口)[編集]
便宜上「陰陽連絡路線」とは考えられないが、比較のためにも明記する。
現在は京都発の特急の本数は多いものの、初の優等列車(準急)の登場は1956年、特急はあさしおの1972年が最初と、陰陽連絡線としては遅い部類に入る。
現在では京都~城崎温泉間に「きのさき」、京都~綾部間に「まいづる」が走る。園部以南はアーバンネットワークの一部で嵯峨野線と呼ばれている。通勤需要もある。
園部以北の高速バスは京都交通の京都〜舞鶴間直行のみで、直接の競合はない。
福知山線[編集]
山陰本線同様、便宜上「陰陽連絡路線」とは考えられることはないが、比較のためにも明記する。
先述の「あさしお」以前は、福知山線を介した京都~大阪~福知山~城崎方面が主流であり、電化前は「まつかぜ」「やくも」などが存在。電化後はしばらく城崎以西への直通がなく、分民化後に「エーデル鳥取」や「エーデル北近畿」が復活したが、智頭急行が開業した後に廃止された。
現在では新大阪~城崎温泉間に「こうのとり」が運行される。また、篠山口以南はアーバンネットワークの一部でもあるため、通勤需要も大きい。
高速バスは舞鶴若狭自動車道から分岐する北近畿豊岡自動車道開通後、全但バスが神戸発着便を含め経由地を変更し、日本交通も大阪〜福知山間で運行しているため、「こうのとり」と競合する。
播但線[編集]
姫路市などの兵庫県播磨地方は本来「山陽地方」に含まれ、播但線も大阪・神戸・姫路と兵庫県但馬地方・鳥取県方面を結ぶ役割を果たし、1960年に気動車準急(急行)「但馬」、1972年に特急「はまかぜ」の運行が開始された。福知山線電化後は、「まつかぜ」に代わって米子まで播但線経由の特急が運行されていたが、智頭急行(後述)の開業により鳥取以西発着に短縮された。
現在も特急「はまかぜ」が大阪~姫路~香住・浜坂・鳥取間を運行。主に兵庫県内の南北連絡線としての役割を担っている。
全但バスは、北近畿豊岡自動車道経由に変わるまで阪神〜但馬地方で高速バスが直接競合し、姫路と城崎を結ぶ高速バスも運行していたが、2018年2月に休止した。
1975年10月に開業した国鉄バスの中国高速線(後述)は福崎インターに停車し、急行「但馬」はハイウェイバスとの競合となり、1986年11月の福知山線電化時に大阪発着1往復、姫路発着1往復の体制となったが、特急「はまかぜ」は1996年3月の急行「但馬」廃止まで播但線内に停車駅が無かったため、直接の競合関係は無かった。
姫新線・因美線ルート[編集]
姫新線は、上月以東で姫路都市圏に含まれていた時期もあり、上月以東は姫路方面への通勤のために本数も少なくなく、地元支援で新車の127系も投入されたが、上月以西では本数が激減し、並行する中国ハイウェイバスに比べて、地域でのポジションは低い。
姫新線沿線の揖保郡に鉄道が通じたのは明治時代で、1909年(明治42年)に1435mmの電化鉄道である播電鉄道が網干港〜播電龍野~新宮町に開通していたが、鉄道敷設法別表により、そうした路線の存在を無視するように、1932年に姫新線が1067mm、蒸気動力で開業して、姫路に直結できない播電鉄道は廃業した。
1960年から、美作経由の陰陽連絡を使命とした優等列車として準急「みささ」が姫新線、因美線経由で運行を開始。1966年に急行に格上げされ、1968年には倉吉・米子方面へ延長して、列車名も「伯耆」に変更し、区間短縮で1975年に列車名が再び「みささ」に戻された。
これらは津山以東で急行「みまさか」を併結したが、同じ1975年に国鉄バスの中国高速線が開業すると、大阪へは安くて速い上に直行便が頻発する高速バスに上月以西で乗客が転移、1985年には「みささ・みまさか」併結の1往復だけに減便した。国鉄高速バスによって姫新線が陰陽連絡路線としての使命を奪われたことは、国鉄部内でも大変な問題となり、この後東北新幹線開業時まで国鉄自動車局の高速バス展開は凍結となった。一方で、日本交通の山陰特急バスは中国自動車道経由便を増やして陰陽連絡手段としてのポジションを高める結果となった。
急行「みささ」は、1986年11月の福知山線経由の昼行急行「だいせん」廃止後は、大阪〜鳥取間を直通する唯一の急行になったが1989年に廃止し、1985年の減便分共々、津山以北の因美線で急行「砂丘」増発に充当。姫路~津山間は「みささ」と同時間帯の日中に直通快速列車が運転されたが短期間で廃止され、現在、姫新線で優等列車はおろか、快速列車も上月以西で早朝、夜間の乗客僅少駅の合理化目的のためにしか運行されていない。
1994年には、以下の智頭急行が開業し、上郡・大原経由で姫路-鳥取間の直通特急列車が設定されたので、姫新線・因美南線ルートは名実ともに陰陽連絡路線としての役割を終えた。
芸備線ともども中国山地を貫く路線として姫新線は存在しており、1972年3月から、津山~広島間を芸備線経由で直通する急行「やまのゆ」が運行されたが、1980年10月に廃止されている。
智頭急行・因美北線[編集]
智頭線ルートの路線は、1922年には既に計画されており、1966年に着工したが、その後国鉄再建の波の中で建設が凍結されていた。1987年に第三セクター鉄道智頭急行として開業することになり、工事を再開、1994年に開業した。高規格化工事と振り子列車導入により特急列車(『スーパーはくと』と『スーパーいなば』)は最高速度130km/hと高速で、それまでの津山線、姫新線および山陰本線香住駅を経由するより所要時間が格段に短縮された。
現在、京阪神・岡山と鳥取県東部を直通する列車が運行する唯一の路線であることから、陰陽連絡路線というよりも、むしろ鳥取駅以東で特急が激減した山陰本線や智頭以南の優等列車が全廃された津山・因美線の代替路線としての役割を担っており、客車寝台特急「出雲」廃止後は、「サンライズ出雲・瀬戸」と接続して鳥取と東京の夜行連絡の役割も担っている。
なお、3県をまたぐことや相生駅など新幹線駅への直接乗り入れがないことで智頭急行の普通列車の乗降実績は芳しくなく、岡山県の智頭線沿線から佐用高校の受験生受け入れを認めた兵庫県教委が行ったような誘客策が望まれている。
津山線・因美南線ルート[編集]
津山線は、1898年(明治31年)私鉄の中国鉄道によって、岡山〜津山口間が開業。会社設立時に、岡山〜津山〜勝山〜根雨〜米子間に敷設免許が下りたように、当初から陰陽連絡路線を志向していた。また東隣の播州側に1909年に播電鉄道(前述)、1923年に神戸姫路電気鉄道が開業して、参宮急行電鉄のようにやり方次第で私鉄連携での阪神進出も伺える状態だったが、1944年(昭和19年)6月に戦時国有化された。
1962年(昭和37年)から津山線と因美線に、急行「砂丘」が陰陽連絡を使命とする列車として運行されていた。1972年の山陽新幹線岡山開業後は、新幹線と連絡することで速達効果を発揮。1975年の博多開業後は、広島と鳥取を結ぶ手段としては芸備線・木次線経由の急行「ちどり」よりも所要時間が短くなった。
国鉄分民化以降、1988年から広島と鳥取を結ぶ高速バスが運行開始されると、西日本旅客鉄道(JR西日本)では対抗上「ひかり&砂丘」という企画乗車券を発売した。加えて、山陽新幹線「ひかり」の高速化で関西と鳥取を結ぶ手段としても、時間帯によっては播但線経由特急より所要時間が短くなり、急行「みささ」からの立て替えで、急行「砂丘」は当時としては異例の5往復を数えたが、智頭急行が開通してしばらくすると、智頭急行経由の特急「いなば」3往復と津山線内運行の急行「つやま」1往復に置き換えられ、2009年には急行「つやま」が廃止されるなど、智頭以南の同区間では優等列車が完全に全廃した。
伯備線[編集]
伯備線は、当初は?優等列車の運行はなく、陰陽連絡路線として機能するのは1953年に岡山駅と松江駅を結ぶ快速「だいせん」が運行されてからであった。1958年に「だいせん」は急行に格上げされて京都駅発着となり、1963年〜1969年には赤穂線経由で運行された。他方、1960年には岡山駅と出雲市駅を結ぶ準急「しんじ」の運行を開始。「しんじ」は一時、宇野線宇野駅発着で、伯備線経由で九州の博多駅まで運行する長距離列車となり、1968年には2往復になった。
本格的に伯備線が陰陽連絡のメインルートとなるのは、1972年の山陽新幹線岡山開業からである。この時に気動車特急「やくも」が4往復運行開始する一方、東城経由で芸備線に直通して広島~米子間を速達した急行「ちどり」は廃止された。「やくも」は、1975年からエル特急となり、1982年には伯備線は電化され、振り子電車の投入もあって時間短縮には大きな効果があったが、2往復残った急行「伯耆」は格上げで廃止された。その後編成は短縮されたものの増発され、2010年時点では鉄道における陰陽連絡路線の基幹的存在となっている。一方、高規格の線路かつ振り子式車両導入路線の智頭急行の開業や2011年に東側で並行する米子自動車道で岡山県側が4車線化されると、県境付近の単線区間で振り子電車でも速度向上が容易でない急カーブの存在といった高速バスより見劣りする点が顕在化するようになっている。
芸備線・木次線ルート[編集]
島根県側で1917年に木次までの簸上鉄道、広島県側で1915年に三次までの芸備鉄道が通じた後、1927年頃から陰陽連絡の工事を始め、1937年に芸備線と木次線が繋がった。開通後まもなく戦時体制に入ったため、この路線に優等列車が走り始めるのは1953年に米子駅と広島駅を結ぶ快速列車として設定された「ちどり」からである。当初は週末のみ運転臨時列車であったが、1959年には定期準急列車に昇格した(のち急行に格上げ)。また、1962年には同じ区間を東城駅経由で伯備線に直通して速達する急行「しらぎり」も運行開始された。
しかし、木次線は、加茂中〜木次間で出雲大東へ大きく迂回する線形に加え、県境でスイッチバックが存在する低規格線で、列車の速度向上による時間短縮はままならなかった一方、伯備線経由で速達していた「ちどり」(旧・「しらぎり」)の方が、伯備線特急増発のあおりで先に廃止されてしまった。
加えて、鉄道では三角形の2辺を辿る大廻りとなる木次〜三次間を短絡する国道54号の整備が進むと民間の特急バスに所要時間で太刀打ちできないばかりか、「鉄道ジャーナル」1989年9月号においても、編集部側で急行「ちどり」の比較ルポ利用は考えていなかったように、鉄道に限っても、伯備線もしくは津山・因美線で岡山に出てから新幹線に乗るほうが、特急「おき」や「いそかぜ」が直通しない広島、徳山への所要時間が短くなるという状態になった。
1990年に急行「ちどり」は木次線区間を廃止、陰陽連絡の使命は失われ、JRバスも中国・松江自動車道経由の高速バスに力を入れている現況である。なお、芸備線は最終的に急行「みよし」が残ったが、2007年に急行運行を終了した。
なお、木次線は現在、廃線の危機に瀕している。芸備線も、三次以西は快速列車も運行されて需要が多いものの、塩町以東の区間は、沿線人口の減少や三次〜庄原間は路線バスが短絡ルートで頻発し、庄原〜東城間も高速バスが短絡ルートを通ることから、同じく廃線の危機に瀕している。
福塩線[編集]
福山駅と塩町駅(但し、塩町駅に達する全列車が三次駅まで直通)を結ぶ路線。福山〜府中間は両備軽便鉄道が起源の電化区間であるが、府中以北で非電化であることなどから陰陽連絡線として扱われたことはなく、三江線全通後も路線のセットが意図されたこともない。但し、1991年までは福山~塩町~備後落合を経由し木次線の三井野原駅まで直通する列車が存在していた。
鉄道敷設法別表第91号によれば、三次以北も来島(現・飯南町来島)経由で木次もしくは出雲市へ北上の計画であり、芸備線と木次線が全通した1937年までは、芸備線の前身の芸備鉄道(1937年国有化)と省営バス雲芸線の連絡によって陰陽連絡の使命を果たしていた。
なお、上下へは尾道鉄道(尾道〜市、1964年8月廃止)も延長の構想があり、両備軽便鉄道と競合した格好になる。
三江線[編集]
三次駅と島根県東部の江津駅を結び、尾関山駅付近で三次市街地を貫くが、全通が1975年と遅い時期で、広島と浜田や大田市を結ぶには線形が悪く大廻りになり、加えて前述のように福塩線とも連携せず、当時すでにモータリゼーションが進行し、広島拠点で国鉄バスの広浜・川本線を運行する陰陽連絡の特急・急行バスが充実していたことから、開通以来、陰陽連絡の使命は果たせておらず、バスが多客となる時期に広島と浜田を結ぶ臨時列車が設定された程度である。
また、このような状況から赤字83線の時代から廃線候補の筆頭に上がっていたが、周囲の道路状況などから現在は廃線を免れていた。しかし、過疎化や道路状況が向上してきたこと、および最終開業区間の口羽〜浜原間以外は低規格で交換可能駅が縮減したことや江の川の氾濫から度重なる運休があったこともあり、通学需要すらも低下。2016年9月に廃止を受理し、2018年3月に廃止された。
なお、改正鉄道敷設法別表には、「島根県滝原附近(粕淵駅)ヨリ大森(石見銀山付近)ヲ経テ石見大田(現・大田市駅)二至ル鉄道」があったが、鉄建公団の工事線に選定されず、三江線南部区間を活かして広島・三次と出雲市・松江方面を短絡する鉄道路線が形成されることは無かった。
山口線[編集]
山口県内では鉄道の陰陽連絡路線として、山口線がその任を担っている。山口線のルートはかつての山陰道に比較的沿ったルートとなっている他、山陰本線益田以西において民営化後に同区間を走行する優等列車が消滅した事もあり、山陰本線益田以西の代替路線としても機能している部分がある。
線内を運行する特急「スーパーおき」の本数は少なく、山口線内は山陰本線益田以東と違い振り子機能を働かせないため、島根県東部や鳥取県までの所要時間はかなりの時間を要し、例えば、鳥取〜新山口間は特急「スーパーいなば」と山陽新幹線を乗り継ぐ方が所要時間が短い。
一方、陰陽連絡のバス路線は、新山口駅からは萩と連絡する路線、広島駅からは吉賀町経由で益田駅と連絡する路線くらいで、島根県東部や鳥取県と連絡する山口線とこれといって競合する事もなく、お互いに現在も現役である。
ちなみに、山口線・バスともに現在は新山口駅(かつての小郡駅)が山陽側起点となっており、大動脈である山陽新幹線・山陽本線との連絡が行われている。
美祢線[編集]
かつては、「離婚・再婚列車」と通称された急行「さんべ」や急行「あきよし」が運行されていたが1980年代に廃止。新幹線厚狭駅新設でかつての隆盛を取り戻そうと図るものの、山陰本線益田以西で優等列車の設定が無くなり、産業構造の変化で山陰道に沿っている山口線より地域のポテンシャルが低下したこともあって、美祢線の陰陽連絡の役割は乏しい。
鉄道未成線[編集]
南勝線(倉吉線)[編集]
倉吉線は山陰本線の倉吉駅(開業後、上井駅に改称)から当時の倉吉市街であった打吹(開業時の倉吉駅)を結ぶ目的で、1912年に倉吉軽便線として上井~倉吉間が開業した。
その後、倉吉市街も時代を経るごとに上井駅のある北方へ拡大するようになり、1975年には上井駅が倉吉駅に戻り、倉吉線の倉吉駅は打吹駅へと改称した。
改正鉄道敷設法で「岡山県勝山ヨリ鳥取県倉吉ニ至ル鉄道」と定められ中国山地を越えて姫新線の中国勝山駅まで延伸する計画があり、1941年に関金駅、1956年に山守駅まで開業したものの、未開業区間は1970年代開業の予土線のように鉄建公団建設の従前より向上した線路規格で見直されることは無く、全通はしなかった。一方、既開業区間も山陰本線と共用の機関車や気動車が「マラソンランナーよりも遅い」とまでいわれるほど超低速で運行する低規格路線だったこともあり、1981年に特定地方交通線第1次廃止対象線区に指定され、廃止された。
大社宮島鉄道 (一畑電気鉄道立久恵線)[編集]
末期は局地的な私鉄線として廃線となったため、陰陽連絡路線として扱われることが少ないが、1932年に出雲市〜出雲須佐間開通後も出雲須佐〜三次間の敷設免許を持ち、芸備鉄道と連絡する構想を持っていたため、「私鉄が計画した唯一の陰陽連絡鉄道」といえる。なお、未成区間の敷設免許は木次線が開通した翌年の1938年に失効した。
同和鉱業片上鉄道[編集]
便宜上「陰陽連絡路線」とは考えられないが、比較のために明記する。
硫化鉄を算出する柵原鉱山の鉱石を片上港まで輸送する目的で開業。柵原駅は旧美作国の区域で、少しのところで東津山駅に近いが、当時、産業に貢献する私鉄だったため、三重県の三岐鉄道や石川県の尾小屋鉄道のように国策による私鉄統合の対象外となり、近隣の中国鉄道とは違い戦時国有化の対象にならなかったため、戦後も経営形態が変わらなかった。石油脱硫装置の開発によって産業構造が変化するとそうした過去が足枷となり、1991年に廃止。
今福線(可部線)[編集]
可部線は広島駅と可部駅(2017年にあき亀山駅まで延伸)を結ぶ路線であるが、2004年までは可部から三段峡駅まで存在していた。改正鉄道敷設法では、三段峡から芸北、波佐、石見今福をへて浜田市(当初は下府駅接続、のちに浜田駅接続)に延伸する計画があった。しかし、これも未成に終わり、2004年に前述の通り可部以北が廃止される。
岩日北線(岩日線)[編集]
岩徳線川西駅から錦町駅を結ぶ路線が岩日線(現・錦川鉄道)として開業。改正鉄道敷設法では、錦町から六日市、柿木(現・吉賀町)を経て山口線日原駅に延伸して、広島・岩国と益田・萩方面を短絡する路線とする計画があったが、六日市まで鉄建公団が路盤工事を終えたところで工事凍結し、未成に終わった。
防石鉄道[編集]
社名が示す通り、防府駅から島根県(旧石見国)の津和野までの敷設構想を持っていたが、資金途絶で徳地町(現・山口市)の堀までの開業に止まった。1964年に廃止。
若桜鉄道若桜線[編集]
便宜上「陰陽連絡路線」とは考えられないが、比較のために記載。
現在は、若桜で行き止まりの盲腸線だが、鉄道敷設法別表では、山陰本線の八鹿までの路線として構想されており、考え方次第で、四国の予讃新線のように、自然環境の険しい海岸沿いを短絡するルートと位置付けることができた。
バス[編集]
陰陽連絡路線は、鉄道よりもバスの方がネットワークが充実している。これは、1970年の自動車重量税創設以降、道路整備の財源が安定して、鉄道より道路交通の方が有利な面があったため、多くの路線が鉄道の先行や代行として設定され、鉄道と同じ機能をバスに求めた結果であり、山陽新幹線博多開業当時唯一の単独駅だった新岩国駅からも国鉄バス岩益線の急行バスが山陰方面に向け発着し、現在は喪失された島根県西部の玄関口の機能を果たしていた。ただ現状は、中国地方は乗用車の普及率が高く、鉄道より有利なバスもマイカーに対しては著しく不利である。
山間部の道路事情は日本の他の地方と同様、改善は遅かったが、それ以上に鉄道の改良は遅れていた。1972年の山陽新幹線岡山開業に伴う伯備線の整備、1994年の智頭急行開業に伴う因美線・智頭線の高速化のみで、陰陽連絡の使命を持つ急行が運行されていた線区でも旧態依然の設備であり、速度向上もままならなかった[1]。
モータリゼーションと並行して山間部の道路改修が進み、鉄道よりも道路交通の方が速達性に優れるケースも増加した。それは、陰陽連絡路線のバスにとっても有利に作用し、1975年以降に中国自動車道が延伸されると、前述の中国高速線以降、国鉄自動車局が1970年代後半に高速バス新設を凍結したため、大阪と日本海側を直結するバスを全但バスや日本交通が中国道経由で増発させた。また、1980年代になると、昭和初期から運行の老舗路線の国鉄バス広浜線が中国道の一区間だけ載せ替えを行ったのを皮切りに、広島電鉄や石見交通などが国道経由のバスを載せ替え、山陽新幹線停車駅との連絡で大幅な時間短縮効果を実現させた。
もっとも、鉄道よりも速達性に優れるようになった高速バスにとっても最大の敵はマイカーであり、同じ道路交通でも公共交通の高速バスは冗長性で勝る自家用車に対して、現状は大きく水を開けられている。
関連項目[編集]
脚注[編集]