津和野町

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津和野町出身の森鴎外
津和野町出身の西周

津和野町(つわのちょう)とは、島根県鹿足郡に存在するである。かつては城下町として山陰の山間部の中で大いに繁栄し、『山陰の小京都』とまで称されるほどだった。

概要[編集]

島根県の最西端、高津川上流に位置する町である。当地は、旧藩からの歴史のある町だけに津和野城跡をはじめ見所は多く、そのために産業構造で見ると、卸売業小売業サービス業などの第3次産業がおよそ50パーセントを占め、観光産業が主要産業であり、この町は観光の町といえる。一方で、山口県所在の町と誤解されることも少なくない。
また、旧津和野町、旧日原町とも、石見西南(石西)の農村地域の中心市場として発展し、周辺の農村地域では沼原の里芋、津和野川の、酪農や栗の栽培なども行なわれている。加えて、旧日原町では絹織物も盛んであった。

幕藩体制下で藩が置かれて武士の支配が長かった関係から、旧城下町の中心である殿町付近には昔ながらの白壁の旧家や武家屋敷が数多く並んでおり、新山口(旧・小郡)から津和野間の山口線SL列車、藩主家時代の亀井家の墓所、藩校養老館跡、家老の多胡氏の表門、森鴎外ゆかりの記念館、西周の旧居など、見所は多い。

隣接自治体[編集]

津和野町に隣接する市町
益田市
山口県
萩市
津和野町
山口市 鹿足郡
吉賀町


歴史[編集]

鎌倉時代後期の永仁3年(1295年)に吉見頼行能登から下向して三本松城(津和野城)を築城し、城下町が成立したのが津和野の始まりと伝わる。以後、吉見氏が11代319年間にわたってこの地を支配した。支配地域は石見であるが、ほとんど周防長門に近かった関係から、大内氏の強い影響力を受けてその配下となり、大内義隆の時代には吉見正頼が姉婿に迎えられて重用されたほどである。その義隆が家臣の陶晴賢(隆房)によって討たれる大寧寺の変が起きると、正頼は晴賢と犬猿の仲でもあったことから毛利元就と結んで陶晴賢を滅ぼすのに貢献した。その後、吉見氏は毛利氏の家臣として津和野を支配したが、毛利氏が関ヶ原の戦い長州藩として大減封させられたのに伴い、津和野を去った。

新たな津和野藩主にはかつて備前を支配し、豊臣秀吉猶子にもなった宇喜多秀家の従兄弟である坂崎直盛(宇喜多詮家)が入封する。しかし直盛は大坂の役の後、千姫事件を起こして改易となり、自殺している。

新たな藩主には亀井政矩が入った。この政矩はかつて毛利氏を相手に尼子氏再興に力を尽くした山中鹿之助の義理の孫である[1]。以後、明治維新まで亀井氏が11代にわたって津和野周辺を支配した。町東部の旧日原町は天領であった。
津和野藩は4万3000石と小藩であったが、第3代藩主の亀井茲親(政矩の孫)が始めた製紙業が藩の専売品として扱われるようになると、後に太宰春台をして「石州の津和野侯(亀井氏)は、板紙を製出してこれを占めて売るゆえに15万石の禄に比す云々」とまで評されるほど津和野藩は豊かだったという。この石見和紙は現在でも民芸和紙として町の特産品の一つに位置づけられている。

昭和30年(1955年1月、旧・津和野町と畑迫村木部村の両村、および小川村の大部分が合併して新・津和野町としてスタートする。平成17年(2005年9月25日日原町と合併し、改めて津和野町が発足。現在は旧日原町域に町役場が置かれている。

津和野町の主要施設[編集]

津和野町の特産品[編集]

津和野町の年中行事[編集]

人口・面積[編集]

  • 人口は6465人[2]
  • 面積は139.85平方キロメートル[2]

教育[編集]

高等学校

出身著名人[編集]

  • 森鴎外 - 明治時代文豪で有名な医師。津和野藩の藩の典医の出身。
  • 西周 - 森鴎外とほぼ同時代を生きた有名な思想家。津和野藩の典医の出身。
  • 江上敬子 - お笑いコンビニッチェのボケ。旧日原町出身。

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. 父の亀井茲矩正室が鹿之助の養女。ただし政矩はこの養女の息子ではなく、継室の多胡氏の子なので血筋はつながっていない。
  2. a b 平成9年度版『全国市町村要覧』
市部 松江市 / 浜田市 / 出雲市 / 益田市 / 大田市 / 安来市 / 江津市 / 雲南市
仁多郡 奥出雲町
飯石郡 飯南町
邑智郡 川本町 / 美郷町 / 邑南町
鹿足郡 津和野町 / 吉賀町
隠岐郡 海士町 / 西ノ島町 / 知夫村 / 隠岐の島町