音田正巳
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音田 正巳(おんだ まさみ、1917年1月21日[1] - 1985年3月14日)は、経済学者、経済評論家。
経歴[編集]
大阪生まれ[2]。東京帝国大学経済学部で河合栄治郎教授の演習に参加。1939年に河合が休職処分に付せられ、出版法違反で起訴されたとき、河合門下が裁判闘争支援や研究のために結成した「青日会」の主要メンバー[3]。1939年東京帝国大学経済学部卒業。日本製鐵に入社。1939-1946年海軍に従軍[2]。海軍主計二年現役として入隊。1943年海軍から復員、日本製鐵を退社[4]。1948年大阪社会事業短期大学助教授、のち教授。1958年大阪府立大学経済学部教授[2]、のち経済学部長。1969年退職。以後、経済評論家。大阪府大を退職後、大阪の実業界の有志が資金援助を申し出、その資金で大阪コクサイホテルを借りて社会動学研究会(音田ゼミ)を開いた。また公害行政のコンサルタントとして活動し、橋本道夫(元環境庁大気保全局長)の推薦で中央公害対策審議会の委員となった[4]。1979年帝塚山大学第4代学長。提案した大学の改革案が教授会で否決されたため、1981年学長を辞任[4][5]。
経済審議会委員[2]、大阪府・都市廃棄物処理対策研究会会長(1968年4月~)[6]、社会思想研究会(社思研)理事(1949年11月~1958年11月、1962年5月~)[7][8]、関西労働文化教育研究所(関労研)初代理事長(1969年4月~1986年)[9]、社団法人日本文化フォーラム評議員、同関西支部役員も務めた[10]。
1985年3月14日、心筋梗塞のため大阪府立成人病センターで死去、68歳[4]。
人物[編集]
- 社会思想研究会(社思研)会員。1949年5月に関西支部が発足し支部長に就任[11]。1953年10月に猪木正道、北野熊喜男、音田正巳、塩尻公明、木下和夫、向井利昌、二宮敏夫、岡崎良雄、富谷浩、内海洋一、山崎宗太郎の11名で関西支部の研究会「土曜会」を発足[12]。北野熊喜男、木下和夫、内海洋一、向井利昌は高田保馬の門下生。伊原吉之助(神戸大学生)のとりもちで、高田門下の北野熊喜男(神戸大学教授)と連絡がつき、高田学派と河合学派が結び付いた[8][9]。
- 1952年8月の『社会思想研究』第4巻第6号に掲載された土屋清の論文「現代文明の前途―再軍備について―(一)」がきっかけとなって『社会思想研究』誌上で行われた再軍備論争では、塩尻公明らとともに現在の日本の再軍備に反対した[13]。
- 民主社会主義研究会議(民社研)会員。1962年2月の『社会思想研究』第14巻第2号の「フィルター」欄に掲載された音田の論考を遠藤欣之助(民社研事務局員)が批判し、民社研の性格をめぐって音田・遠藤論争が行われた。遠藤が「私は、必ずしも社会党(これにはどしがたいグループがいる)と民社党が再統一してほしいと思わないのです。しかし、民社研の思想活動(微力であっても)によって、自民党の近代化をすすめその一部と、さらに進歩的な経営者群および中小企業、農漁民をその戦列に加え、社会党のごく一部と、そして民社党をふくめた民主社会主義政党が生まれるのを期待したいのです」[14]と述べたことに対し、1961年の民社研の大会で「遠藤氏のいわれるような方向をすでに民社研が目指していることを知り、とうていその柄ではないと考えて」理事に就任することを断ったと明かしている[15]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『労働運動と社会思想』(兵庫県商工労働部[労働通信講座]、1957年)
編著[編集]
- 『公害――環境の科学』(舘稔、鈴木武夫共編、毎日新聞社、1972年)
- 『余暇社会の到来』(エルマー・ブラント共編、有信堂、1974年)
- 『婦人と労働――日独シンポジウム報告書』(エルマー・ブラント共編、日本労働協会、1975年)
訳書[編集]
- A.D.リンゼイ『資本論入門』(木村健康共訳、弘文堂[アテネ新書]、1951年)
- 改訂版:A・D・リンゼイ『カール・マルクスの資本論――思想史的・批判的入門』(木村健康共訳、弘文堂、1972年)
- E・H・カー『革命の研究』(社会思想研究会出版部、1952年)
- ラスキ『世界大思想全集 社会・科学・思想篇 第二十六巻 ラスキ』(関嘉彦、吉田忠雄、三宅正也共訳、河出書房、1956年)
- 桑原武夫ほか編『世界思想教養全集17 イギリスの社会主義思想』(関嘉彦、吉田忠雄、野田福雄、山下重一共訳、河出書房新社、1963年)
- 『世界の思想17 イギリスの社会主義思想』(関嘉彦、吉田忠雄、野田福雄、山下重一共訳、河出書房新社、1966年)
出典[編集]
- ↑ 『著作権台帳 第24版』1997年
- ↑ a b c d エルマー・ブラント、音田正巳編『婦人と労働――日独シンポジウム報告書』日本労働協会、1975年
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年、5頁
- ↑ a b c d 橋本弘「音田正巳君を偲ぶ」『改革者』第26巻第2号(通巻300号)、1985年5月
- ↑ 帝塚山大学(PDF)帝塚山大学
- ↑ 平岡正勝「あかりまど 廃棄物処理法10周年」『生活と環境』第27巻第2号(通巻308号)、1982年2月
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年、126-127頁
- ↑ a b 音田正巳「想い出は昨日のごとくに」『社会思想研究』第24巻第3号、1972年3月
- ↑ a b 内海洋一、堀江湛「関西における民主社会主義――熱気に満ちた学習意欲」『改革者』第41巻第12号(通巻485号)、2000年12月
- ↑ 「〈資料と解説〉「体制派文化人」の組織と人脈」『月刊社会党』第235号、1976年7月
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年、21頁
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年、58頁
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年、52頁
- ↑ 遠藤欣之助「民社研に期待するもの――音田会員の誤解を正す」『社会思想研究』第14巻第3号、1962年3月
- ↑ 音田正巳「遠藤会員の批判に答える――一民主社会主義者の立場」『社会思想研究』第14巻第4号、1962年4月