木谷実
木谷 実(きたに みのる、明治42年(1909年)1月25日 - 昭和50年(1975年)12月19日)は、昭和を代表する囲碁棋士。獲得タイトル数は4。紫綬褒章受章。従四位勲二等瑞宝章。平成22年(2010年)に日本棋院囲碁殿堂入り。木谷実の表記は、木谷「實」とすることも多い。
経歴[編集]
入段まで[編集]
1909年(明治42年)1月25日兵庫県神戸市水木通8丁目に、父木谷十作、母菊江の長男として生れる[1][2]。父親は理髪業を営み、実は第一子である。小さい頃から知人に将棋と囲碁を習い、大正6年(1917年)、8歳の頃、小野彦太郎の紹介で、鳥居鍋次郎(当時二段、後に五段)に九子で指導を受け、師事した。
大正7年(1918年)、鳥居鍋次郎の二段昇段披露会で鴻原正広四段(当時)と、久保松勝喜代四段に紹介され、鳥居の推薦で両氏に師事した。久保松門下には当時、橋本宇太郎(後に本因坊)村島誼紀がいた。父方祖父の太田栄次郎の遺言により、父も実を囲碁棋士にすることを決意した。大正10年(1921年)、12歳のとき久保松の推薦により鈴木為次郎六段(当時)と師弟の盃を交わす。同年11月25日、東京のトップ棋士鈴木為次郎名誉九段に弟子入りするため、高等小学校(1年)を中退して上京する[2]。
鈴木六段の家に内弟子としてすぐに住み込む予定であったが、たまたま改築中であったため久保松のツテで相撲の二所ノ関部屋に下宿した。翌年春まではそこから鈴木為次郎(当時六段)の家に通って指導を受けた。このとき二所ノ関部屋にいた玉錦(のち横綱)などとも親交を深めた。大正11年(1922年)、鈴木六段が神田に下宿したのを期に、13歳でその内弟子となる。大正12年(1923年)、鈴木六段が裨聖会に参加したため、この年創立された中央棋院へ通う。
若手棋士[編集]
大正13年(1924年)2月15日付で中央棋院より入段を許される。同年7月、日本棋院が設立され木谷は初段棋士として参加した。大正15年(1926年)春、日本棋院定式手合で二段に昇段。同年夏、推薦により三段に進む。
昭和2年(1927年)3月、18歳で4段に昇段する。同年、毎日新聞主宰の新進打切碁戦で十人抜きを達成し(1月から5月掲載)、「怪童丸」のニックネームをつけられた。さらに日本棋院と棋正社との対抗戦で8人抜きを成し遂げ、新進木谷の声価は決定づけられた。
昭和5年(1930年)2月15日、五段に昇進。鈴木為次郎の許から独立し妹の幸子と一緒に青山の家に住む。昭和6年(1931年)10月10日に柴野美春(1910.3.16-1991.6.3)と結婚し、麹町五番町に新所帯を構える。柴野美春は長野県地獄谷の出身で、昭和4年(1929年)に坂口常次郎五段がたまたま木谷を伴って休暇に訪れ、その時に知り合ったものである。
昭和8年(1933年)夏に、保養と『布石と定石の統合』の講述のため、信州地獄谷温泉へ行く。呉清源を同地に招き、新布石を研究する。木谷実と呉清源は秋頃から2人で新布石を実戦に打ち出した。同年、住居を滝野川区西ヶ原町に移すが、翌年滝野川区上中里に移る。住居を滝野川に移すと同時に「仙友会」を創設。同時に、内弟子を取りプロ棋士の養成を始める。同年10月4日、秋期大手合で長谷川章五段に白番で3度目の三連星を試み快勝。「新布石」の発端になった。
中堅棋士[編集]
昭和9年(1934年)2月、六段に昇進。呉清源(当時五段)との第一次十番碁を開始。三勝三敗となり、第六局で木谷昇段のため打ち切りとなる。同年5月、呉清源と中国、満州、朝鮮の親善旅行を行う。同年12月、処女作『布石と定石の統合』(誠文堂新光社「現代囲碁体系所収」)を出版する。 昭和11年(1936年)1月1日付けで七段の免状を授与される。昭和12年(1937年)夏、平塚に移り、プロ棋士養成のため「平塚木谷道場」を開設する。昭和14年(1939年)6月、読売新聞主催で「木谷・呉清源十番碁」(第二次)が開始される。木谷の4勝6敗(昭和16年(1941年)まで)で先相先に打ち込まれる。 昭和18年(1943年)1月、八段に昇進した(昇段点は前年に達成している)。昭和19年(1944年)7月、応召。京城朝鮮第22部隊に配属される。9月除隊。
昭和20年(1945年)4月、家族は山中湖(遠山元一別荘)に疎開する。平塚空襲により自宅が焼失した[3]。同年10月、平塚に戻る。
戦後の活躍[編集]
昭和22年(1947年)、第四期本因坊戦で岩本薫和本因坊に挑戦するが、2-3で敗退した。 昭和28年(1953年)、高川秀格本因坊(高川格)に挑戦するが、4-2で敗退した。昭和29年(1954年)、脳溢血で倒れ、2年間療養に入った。 昭和31年(1956年)12月、第二期最高位戦リーグで前田陳爾八段を破り、九段に昇進した。
昭和32年(1957年)、第2期最高位戦で坂田栄男最高位を3勝1敗で破りタイトルを奪取した。昭和33年(1958年)、第3期最高位戦で島村俊廣八段を3勝2敗で破りタイトルを防衛した。昭和34年(1959年)、第十四期本因坊戦で高川格本因坊に挑戦するが、2勝4敗で敗退した。昭和35年(1960年)、第7回NHK杯争奪囲碁選手権(ラジオ)で優勝。
晩年[編集]
昭和36年(1961年)、第8回NHK杯争奪囲碁選手権準優勝。昭和37年(1962年)5月、四谷三栄町に「四谷木谷道場」を開設。昭和40年(1965年)10月、紫綬褒章受章。昭和40年(1965年)から昭和44年(1969年)にかけて日本棋院理事となる。昭和42年(1967年)3月、木谷実選集『私の碁』の刊行開始(全3巻、日本棋院刊)。 昭和43年(1968年)、木谷実九段・同美春夫人は第3回大倉喜七郎賞を受賞した[4]。同年12月、第六期プロ十傑戦1回戦で本田邦久七段(当時)と対戦。公式手合は最終局となる。
昭和49年(1974年)、3月木谷道場閉鎖。 昭和50年(1975年)、12月19日、心不全のため平塚の自宅で死去した。12月28日、日本棋院葬。昭和51年(1976年)、従四位勲二等瑞宝章(没後受章)。平成22年(2010年)、囲碁殿堂に入る。
棋風[編集]
- 棋風は3回の変遷がある。低段の頃は戦闘的な棋風の力戦で相手をなぎ倒し「怪童丸」と呼ばれた[5]。1936年ごろからの中期は実利を重んじる棋風となり中盤では相手に大模様を張らせて突入する戦法を採用していた。円熟期では独自の手厚さを維持しつつ均整のとれた碁になった。
- 驚異的な読みの深さが特徴で、妥協なく深く読み、妥協がないため、木谷の碁は険しい変化が多い。
- 昭和8年に呉清源と新布石法を発表し、位の高い碁に変わった[6]。
- 「木谷定石」は木谷が好んで打った型であり、他の棋士はほとんど採用せず、一般には不利といわれているが、それでも使い続ける愚直さが見られた。
人物[編集]
- 木谷は相撲部屋に住んでいたころ、部屋の力士たちに負けないくらい、ちゃんこを食べていた。
- 本因坊に3度挑戦したがいずれも敗れ、悲劇の棋士と呼ばれる。
- 弟子の小林光一名誉棋聖は「先生にとって碁盤というのは「真理を追求する場所」ですから「一手もおろそかにしてはいかん」という思い」があったと語る[7]。
- 木谷実が活躍していた昭和の前半は棋戦は平成時代ほど多くないため、木谷は地方を回り指導碁を打って生活費を稼いでいた[2]。
名人引退碁[編集]
21世本因坊秀哉名人は自らの健康と世の中の流れから引退を決意し、本因坊の名跡は本因坊戦によって継承していく旨の声明書を出した。引退碁のめ「本因坊引退碁挑戦者決定リーグ戦」鈴木為次郎、瀬越憲作、加藤信、木谷実、久保松勝喜代、前田陳爾の6名で行われ、29歳の木谷7段(当時)が優勝し、名人と対戦することになった。 黒番は木谷実七段、白番はこれを最後に引退する本因坊秀哉名人であり、持時間は空前の40時間という長時間であった。封じ手は「名人勝負碁」の頃はまだ採用されておらず、打ち掛けはつねに名人の手番で行われた。東京日日新聞、大阪毎日新聞主催で、1938年(昭和13年)、6月26日、紅葉館(芝公園、東京)で打ち始め(2回打ち継ぐ)、7月11日より奈良屋(箱根)に移り、8月14日までの前半戦(8回打ち継ぐ)は、8月に入って名人が病気のため聖路加病院に入院して中断(白100のツギ、封じ手)となりました。加療約三ヵ月間の後、後半戦は、11月18日より暖香園(伊東温泉、伊豆)で再開され、12月14日の終局まで(5回打ち継ぐ)、実に1局で7ヵ月間に及ぶ長期対局となった[8]。結果は木谷の先番五目勝に終わった。この対局の模様は川端康成が観戦記を執筆し、それをもとに小説『名人』を執筆した。小説では木谷七段は大竹七段として登場する。
鎌倉十番碁[編集]
本因坊秀哉名人の引退後の日本の第一人者は誰かに世間の関心が集まった。1933年3月から時事新報社の企画で木谷実と呉清源は十番碁を打ったが、打ち込み碁ではなかったし、三勝三敗で打ち分けであった。当時は木谷五段24歳と呉清源五段19歳で人気・実力とも抜きんでていた。当時、読売新聞は,「打込制手合」の独占契約を日本棋院と結んでいた。毎日新聞の「第1期本因坊戦」に対抗するため読売新聞は木谷対呉による十番碁を企画した。四番手直りの打込み制、持ち時間各13時間、3日打ち切り,封じ手の採用,手合中は泊まり込みとされた。対局場としておもに鎌倉の神社仏閣(建長寺西来院,円覚寺帰源院,鶴岡八幡宮)が選ばれたために,「鎌倉十番碁」の名で知られている。第1局の開始は1939年9月28日、建長寺の修行道場「西来庵」が対局場で行われた。第一局は右辺で白が一線を這い、劫争いになるという凄まじい展開となり、木谷七段は157手を打ち終えた直後に鼻血を出し、頭を手ぬぐいで冷やしながら悶々と寝ころがった。呉七段は「木谷さん、どうします、休みますか?私はもう打ちますよ」と言って次手を打ちおろし劫を解消して黒の4目をあげた。結果は白の呉清源七段の2目勝となった。消費時間は白7時間59分、黒12時間59分であった[9]。勝負は第6局までで呉清源七段の5勝1敗となり,棋士人生を賭けた一戦で呉清源七段は木谷実七段を先相先に打ち込んだ。
新布石[編集]
- 新布石が一般に広がったのは木谷実・呉清源・安永一共著の「囲碁革命・新布石法」が出版されたのがきっかけであった。安永が「発売当日、本を買いに来た人が二重三重に取り巻いた」と言ったが、碁の本で10万部売れたことは極めて珍しいことであった[10][11]。
- 中央を重視してピーディーに展開しようというのが新布石の考え方である。序盤も含めた発想の転換を迫り、打ち方が「革命的」に変わった。部分よりも碁盤全体を広く捉えるという発想が考え方の基本となっている。
- 囲碁界では初手を右上隅の「小目」に打つ方法が、長い間に渡り良い打ち方であるとされていた。木谷と呉の二人は小目に代わり、その隣の星に打ったらどうか、更にはその更に内側(中央寄り)の点(五五)に打ったらどうか、という今まで誰もが打ったことのない、斬新な布石を考え出した。それは(1)隅の着手の経済性、(2)中央への勢力の発展、(3)戦闘の有利の3点である。隅の着手の経済性とは、旧法では隅を2手のシマリを必要とするが、隅の地取りに拘泥しない。中央への勢力の発展とは中央への発展にスピードをもたせ、中央への勢力と模様をより重視する。戦闘の有利とは勢力を重視し、急戦に持ち込み戦いを有利に運んでいくものであった[5]。
院社対抗戦[編集]
院社対抗戦は1926年に行われた日本棋院と棋正社との勝ち抜き対抗戦である。読売新聞社の正力松太郎社長が本因坊秀哉名人を説得して実現した。日本棋院側の12番手として出場した木谷実は持碁2局をはさんで8連勝し、日本棋院の勝利を決定づけた。大正の争碁の名にふさわしい注目を集め、新聞の発売部数が一挙三倍になったとされる[12]。
- 木谷実の戦績
木谷道場[編集]
1937年(昭和12年)、大磯町から平塚市に転居し、その後、桃浜町に居を移して「平塚木谷道場」を開設する。 自宅の木谷道場は内弟子をとり多くの棋士を育てた。木谷道場には、全国は基より韓国からも才能豊かな弟子が集まり、木谷は戦前・戦後を通し、一貫してプロの囲碁棋士を育てた。ピーク時に内弟子は30人を越えていた[13]。1985年ら1998年まで三大タイトル、1985年から1988年まで七大タイトルを木谷一門で独占していた。70名以上が弟子入りし50名以上がプロ棋士となった。人材の多くは、木谷が全国で行った指導碁(稽古碁)の際に見出された子供たちで、木谷はこの子供たちを何不自由なく囲碁だけに集中できる環境と場所を自宅に確保し、自分の子供と同じように育てた[2]。 美春夫人は、けがや病気が起きるなら、預かっている子供たちでなく、自分の家族の方に当たってほしいと、神様に真剣にお祈りしていたという[13]。 木谷道場が閉鎖されたのは、木谷実が亡くなる前年の1974年(昭和49年)3月であった。
門下生[編集]
- 門下に 戸沢昭宣九段、大竹英雄名誉碁聖、岩田達明九段、故大平修三九段、故加藤正夫名誉王座、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫)、武宮正樹九段、小林光一名誉棋聖、趙治勲名誉名人、小林覚九段、梶和為九段、石榑郁郎九段、佐藤昌晴九段、宮沢吾朗九段、故上村邦夫九段、本田幸子七段、小林健二七段、小川誠子六段、小林千寿六段、故筒井勝美四段ほか多数[2]。
- 内弟子の朝はそうじから始まり、碁の勉強、朝食の台所当番を行う。石田芳夫二十四世本因坊のキャベツの千切りとカレーは絶品と言われた[14]。早碁の一番手直りで、一か月に三百局以上を打っている[15]。
- 最初の弟子として武久勢士(日本棋院地方棋士七段,1916-2011)が昭和8年3月に17歳で内弟子として入門した。その年に梶和為(九段,1922-2000)、松本篤二(八段,1921-)、翌年に芦葉勝美(七段,1922-1998)、中山繁行(五段,1921-?)が入門した[13]。
- 1962年(昭和37年)8月「木谷一門百段突破記念祝賀会」が開催される。木谷門下生の合計段位が百段を超えた記念である。
- 木谷一門200段突破記念大会は1970年(昭和45年)3月に開催され、突破記念パンフレットが作られている[16]。
- 「コンピューター」と言われた石田芳夫二十四世本因坊、「宇宙流」の武宮正樹九段、「殺し屋」の故加藤正夫名誉王座の3名の弟子は「木谷の三羽烏」「黄金トリオ」と呼ばれた。
- 加藤正夫は、木谷一門の弟子がみな棋風が違うのは、木谷先生が弟子一人一人の個性を大切にしたからという。多様な個性を持ちながら、それぞれがみな一流であるところに木谷先生の偉大さが分かるとする[2]。
- 木谷実は弟子として預かる始めるには小さいほどよいと語っていた。小学校1年は、小林千寿六段と趙治勲名誉名人であったが、それより小さい子供はいない。4歳ころから預かってみましたら、もっと楽しみだったかもしれないと美春夫人は語った[2]。
- 弟子の小林覚九段は、師匠の木谷実が怒った姿を見たことがない、と語る[2]。
親族[編集]
- 木谷実の実子も弟子と同様に木谷実を「先生」と呼び、弟子たちは母を「お母さま」と呼んでいたから、木谷家を訪れた客は、誰が実の子どもなのか分からなかった[17]。
- 木谷実の実子も囲碁の修行をしていたが、その中で囲碁棋士になったのは小林禮子であった[2]。
- 木谷家の長男の木谷健一は東京大学医学部を卒業し医師となった。国立療養所中部病院長寿医療研究センターに勤務したが、平成20年(2008年)に没した[18]。
- 木谷家の次男の木谷明は東京大学法学部を卒業後は裁判官になり[2]、退官後は弁護士となった。
- 三男の木谷正道は東京大学経済学部に進学し、卒業後は東京都庁勤務となり[2]、現在は暮らしと耐震協議会理事長となっている。
- 娘の小林禮子七段の夫は小林光一名誉碁聖のため、弟子であるとともに義理の子に当たる。
- 小林光一名誉碁聖の娘は小林泉美六段で、木谷実の孫にあたる。
- 小林泉美六段の夫は、張栩九段であるから、義孫に当たる。
- 木谷好美三段は、木谷実九段の妹の子で、木谷実は伯父にあたる。
名の表記について[編集]
木谷実の「実」は常用漢字であるから、人名に使うことは問題ない。昭和17年6月17日時点で「実」は、「實」に代えて一般に使用すべき漢字とされていた。その後、平成16年9月8日、法制審議会は人名用漢字の追加候補488字を答申し、同年9月27日の戸籍法施行規則改正で、これら488字は全て人名用漢字に追加され、「實」は人名に使えるようになっている。ここでは木谷実に統一して表記を行っている。なお木谷実の生前に刊行された「現代の名局 第3巻」及び「現代の名局 第4巻」はいずれも「木谷実」となっているし[19]、1963年刊行の「定石小読本」の著者名も「木谷実」となっている[20]。
著書[編集]
- 木谷実『布石と定石の統合』誠文堂,1934年
- 木谷実『囲棋革命新布石法 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年
- 木谷実『新布石法 : 囲棋革命 : 星・三々・天元の運用』平凡社,1934年
- 木谷実『新布石の針路 : 木谷実昇七段記念』日本棋院,1936年
- 木谷実,久保松勝喜代『囲碁の研究 : 玄覧・機山夜話』博文館,1937年
- 木谷実『機山遺譜』機山会,1942年
- 木谷実,前田陳爾『新旧綜合現代新布石法』大阪屋号書店,1952年
- 木谷実『近代囲碁ノート』日本棋院,1955年
- 木谷実『木谷定石集 [第2] (互先之部)』大阪屋号書店,1957年
- 木谷実『打ち込みと消し』実業之日本社,1957年
- 木谷実『手筋と形 : 木谷システム』池田書店,1959年
- 鈴木為次郎, 木谷実『定石小辞典 上 (星・3三・超定石)』誠文堂新光社,1965年
- 木谷実『中盤戦この一手』東京創元新社,1966年
- 木谷実『わたしの碁 : 木谷実選集 第1巻 (思い出の局)』日本棋院,1967年
- 木谷実『思い出の局』日本棋院,1967年
- 木谷実『新布石興る』平凡社,1968年
- 木谷実『新布石・木谷定石』日本棋院,1968年
- 木谷実『木谷実定石集』集文館,1972年
- 鈴木為次郎,木谷実『定石小辞典 下(小目 高目 目はずし)』誠文堂新光社,1975年
- 木谷実『木谷實全集 第1巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷實全集 第2巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷實全集 第3巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷實全集 第4巻』筑摩書房,1977年
- 木谷実『木谷實全集 第5巻』筑摩書房,1978年
- 木谷実『囲碁百年 2』平凡社,1980年
参考文献[編集]
- ↑ 木谷實,日本棋院
- ↑ a b c d e f g h i j k 内藤由紀子(2016)『それも一局』水曜社
- ↑ 木谷實について,2013年3月18日
- ↑ 大倉喜七郎賞
- ↑ a b 菊池 達也『木谷実とその時代』,棋苑図書,244p,ISBN:48736515141999年
- ↑ 呉清源, 木谷実,安永一『新布石法』三一書房,ISBN:4380942821,1994
- ↑ 小林光一名誉棋聖が語る師匠・木谷實九段,NHK出版,2014-04-06
- ↑ 福田淳子(2016)『「本因坊名人引退碁観戦記」から小説『名人』へ』學苑 904, pp.52-67
- ↑ 田中恒寿(2015)『呉清源打込み十番碁と読売新聞』札幌大学総合論叢 第40 号
- ↑ 木谷実・呉清源・安永一『囲棋革命新布石法:星.三々.天元の運用』154p,平凡社,1934年
- ↑ 地獄谷温泉で新布石研究(寄稿連載)読売新聞,2013-02-12
- ↑ 林裕(1968)『囲碁風雲録 : 昭和の大勝負』人物往来社
- ↑ a b c 木谷 美春『木谷道場と七十人の子どもたち』,日本放送出版協会,ISBN: 414080047X,1992
- ↑ 木谷道場での濃密な生活(寄稿連載1)読売新聞,2012-02-14
- ↑ 木谷道場での濃密な生活(寄稿連載2)読売新聞,2012-02-14
- ↑ 木谷一門200段突破記念大会パンフレット復刻版
- ↑ 木谷家、大所帯の暮らし
- ↑ 故木谷健一先生に捧げる
- ↑ 木谷実(1968)『現代の名局〈第3〉』誠文堂新光社
- ↑ 木谷実(1963)『定石小読本』日本棋院