正力松太郎

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正力松太郎(しょうりき まつたろう、1888年4月11日 - 1969年10月9日(満81歳没))は、日本実業家政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。高岡市名誉市民。2018年10月に囲碁殿堂入りした。

経歴[編集]

1888年(明治18年)4月11日、富山県射水郡枇杷首村(現射水市)に母きよ、父正力庄次郎の次男として生まれる。祖父の代から正力家は土木請負業であった。この地の名家として名声を得たのは、祖父庄助がこの地に度々災害をもたらした庄川の氾濫を防いだ功績による。

1899年(明治32年)、北陸の名門、金沢の旧制第四高等学校に入学し、柔道を始める。 1907年(明治40年)、東京帝国大学独逸法科入学。連日のように講道館に通い、三船久蔵八段(のち十段)の指導をうけていた。

東京帝国大学を卒業し、1912年(明治45年)内務省統計局に入省した。同年高等文官試験に合格。1913年(大正2年)警視庁に入庁。堀留、神楽坂の署長から、第一方面監察官となった。1917年(大正6年)早稲田大学の学園騒動、1918年(大正7年)東京市の米騒動を鎮圧し、刑事課長、官房主事、警務部長と出世コースを歩む。

しかし1923年に虎ノ門事件が発生、引責辞任の形で懲戒免官在野に下った。

警察官の職務を辞して1年後に、大正13年(1924)2月、破産寸前の読売新聞の経営を引き受ける話が正力に持ち込まれた。友人の後藤圀彦(のち京成電鉄社長)と河合良成が、番町会の郷誠之助(東京株式取引所理事長)に正力を推薦した。後藤新平(内務大臣兼帝都復興院総裁)から10万円を借り入れ、読売新聞の経営権を買収し、読売新聞社の7代目社長に就任した。

当時既に落ち目で身売りしていた讀賣新聞社を買い取り、社長として就任、経営を立て直す。経営者として倒産寸前の会社を立て直した実績でも非凡な才能を持っていた。正力は紙面と大衆社会とを結びつけるようにし、大衆が喜ぶものを提供した。それと同時に、新聞社主としての経済力をバックに政財界への発言力を強めていった。

1944年に貴族院議員に勅選され、1945年の敗戦時にはA級戦犯としてGHQに逮捕され、巣鴨プリズンに収監されている。貴族院議員に列せられたこと、東京裁判で終身刑を求刑された小磯国昭(獄死)内閣の顧問に選ばれたことが理由であった。 戦後になってからも発言影響力は衰えることなかったが、一方で戦後日本で戦前と同様に日米野球対決を興行するなどして日本プロ野球の発展に尽力した。さらには日本全国を股にかけるテレビネットワークの設立にも関心があった。

1969年(昭和44年)10月9日、熱海市の国立熱海病院で冠不全のため死去。

異名[編集]

プロ野球の父
戦前から戦後まで日本プロ野球の成長を支えたことから。
原発の父
戦後日本で原子力発電所を推進したことから。
テレビ放送の父
日本初の商業テレビ放送企業創業者だから。

人物[編集]

正力は読売新聞社を買い取るため、伊豆長岡の後藤新平の別荘を訪ね10万円の金策を申し込んだ。後藤は「よろしい」と承諾し、「新聞経営は難しいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練を残すな。金は返す必要はないからな」と言った。このとき後藤は、麻布に所有していた5千坪の土地を担保に10万円を工面したが、金の出所を正力には言わなかった。

免官前の在職中に関東大震災が発生し警察高官として事態に対処した。『悪戦苦闘』[1]の中で、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」と正力自身が述べている。正力松太郎は当時、官房主事であった。

1923年(大正12年)9月3日午前八時以降に「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれている。

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし

石井光次郎は当時、朝日新聞の営業局長であったが、石井は正力君のところで情勢を聞くよう記者を差し向けたところ、記者の報告に朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろと言われたと書かれている。そのとき、朝日新聞の専務の下村海南は朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、そのときに暴動を起こすようたくらむわけがない、流言蜚語にきまっている、と述べたとされる[2]。混乱した当時にあって冷静な判断と言える。

(正力の言動を好意的に考えるならば)東京の治安を受け持つ警視庁の高官として、また、後の著書[1]で「通信回線途絶による疑心暗鬼でデマの流布を止められなかったもの」として自らが高官を務めた警視庁の手際ミスと自身および組織的な対応失敗であったといえる。しかし、正力は内務省の電文を記者に伝えただけという解釈も可能であるから、そうなれば正力自身が発信源であったとする根拠は薄くなる。

巣鴨監獄では米CIAとの司法取引により不起訴になったともいわれるが、一方では正力はなぜ軍部に協力したのかと問うGHQ取調官に理路整然と答えたともいわれる。GHQは「正力は卓越した新聞社の経営者であり、事業を遂行するために政府の要職に就き、合わせて行動せざるをえなかった状況が明らかになった。よってGII(参謀第二部)は、正力の釈放を勧告する」と結論付け、昭和22年9月1日、正力は釈放された。真相はまだ明らかになっていない。

こうした経緯からか、戦後は一貫して正力はCIAの非合法・非公式工作協力者としての側面を持っていたともいわれる。

トリビア[編集]

囲碁界への貢献[編集]

日本棋院棋正社との間を取り持ち、「院社対抗戦」を企画し、読売新聞で大々的に取り上げた。雁金準一本因坊秀哉の名勝負もあって、読売の部数増と囲碁人気を全国に広めるシナジー効果が生まれた。その後、打ち込み十番碁を企画し、昭和2年の鈴木為次郎野沢竹朝の十番碁、昭和14年の鎌倉十番碁(呉清源とそのライバル木谷実との十番碁)を取り上げた。

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  1. 1.0 1.1 正力松太郎(1999)『正力松太郎―悪戦苦闘 (人間の記録 (86))』日本図書センター
  2. 石井光次郎(1976)『回想八十八年』カルチャー出版