久保松勝喜代
久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)10月25日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、大正時代から昭和時代前期の囲碁棋士。
経歴[編集]
1894年(明治27年)、兵庫県尼崎市出身で生まれる。5歳の時に父の打碁を見て碁を覚える。6歳で父を亡くし、伯父の後見で育つ。少年時代に特定の棋士に師事せず、ほとんど独学で棋力を磨いた。1908年、当時大阪にいた11歳の小岸壮二と向先で対局し勝利、この棋譜が『日本及日本人』誌に本因坊秀哉の講評で掲載された。1912年に大阪北野中学を卒業し、関西大学に入学するが中退した。大正3年(1914年)に来阪した方円社社長の2代目中川亀三郎(石井千治)に二子で1勝1敗とし、飛び付き三段を許される。1年間志願兵として入隊。大正4年(1915年)に4段。大正9年(1920年)に5段。大阪で開かれた昇段披露会は盛会で、本因坊秀哉と雁金準一の対局が行われた。
大正10年(1921年)、井上因碩(恵下田栄芳)、田村嘉平、渥菓六郎らとともに、当時あった浪花会、暁鐘会を合併して、活動休止状態の関西囲碁研究会を再結成する。その後日本棋院設立に参加し、大正15年(1926年)に6段、昭和3年(1928年)から大手合に参加する。春期、秋期に神戸から上京して対局した。
昭和9年(1934年)、東京大阪二元放送によるラジオ対局の早碁で、東京の呉清源五段に先番8目勝。技量の劣るものの昭和12年(1937年)の本因坊秀哉引退碁の相手を決めるトーナメントでは、6段トーナメントを勝ち抜いて7段陣とのリーグ戦に出場。最終戦で木谷実7段との全勝対決で敗れた。第1期本因坊戦では、6段級トーナメントを勝ち抜いて最終トーナメントに出場。
昭和15年(1940年)に7段。昭和16年(1941年)の後期大手合の途中で倒れ、12月に死去。昭和17年(1942年)に追贈8段。平成21年(2009年)に日本棋院、関西棋院から名誉9段を追贈される。
人物[編集]
- 体躯5尺5寸7分、23貫目の偉丈夫、大声であったとされる。
- 久保松は碁客を4種に分類した。
1.考案早くて技量優秀なもの 2.考案遅けれど早くて技量優秀なもの 3.考案早けれど技量の劣るもの 4.考案も遅く技量も劣るもの
第一級は天才であり、第二級は努力の人、第三級はなお努力が必要、第四級は一層の努力が必要とした[1]。
- かって久保松の弟子であった木谷実、橋本宇太郎が久保松を追い越して七段になり、久保松が六段のままであることには悔しいと考えたことはないという。彼らが出藍の誉れを発揮することが、間接に久保松の誉れになると考えていた[1]。
棋風[編集]
- 玄人らしくない棋風のため「偉大なる素人」と呼ばれた。
門下 [編集]
- 関西出身の、村島誼紀、橋本宇太郎、木谷実、前田陳爾らを弟子に取り、才能を伸ばすために東京で修行させるため本因坊秀哉、瀬越憲作、鈴木為次郎らの門下として送りだした。
- 神戸を根拠地として、「神戸土曜会」を主催し、染谷一雄、瀬川良雄、鯛中新、刈谷啓、窪内秀知、鈴木越雄、松浦吉洋らを育てた。
- 木谷実の入門時に井目から千局くらい指導碁を打ったと、毎日新聞の三谷に話した。
著書[編集]
- 久保松勝喜代(1961)『苦闘十三年 : 八段久保松勝喜代遺稿』機山会
- 久保松勝喜代(1929)『碁の常識』中外出版
- 久保松勝喜代(1933)『囲碁の謎天元と新布石』日本放送出版協会関西支社
- 久保松勝喜代(1933)『百人一局 : 古今名局集 第1巻』実業之日本社
- 久保松勝喜代(1935)『目から頭へ置碁初段の近道』大文館
- 久保松勝喜代(1934)『侵分と劫の研究』誠文堂