紅葉館
紅葉館(こうようかん)は、明治・大正・昭和において日本を代表する会員制の社交施設であった。1945年(昭和20年)に空襲により焼失し、跡地は東京タワーとなっている。
歴史[編集]
1881年(明治14年)、芝の紅葉山に開業した純和風の高級社交サロンである。開業当初は300名限定の会員制(1人10円の出資)であったため、ごく一部の上流階級のみが参加した。紅葉の装飾を施した豪華な内装の和風建築と、紅葉をあしらった着物姿の美女たちの接待が評判であった。外国人の接待や政財界の集まりでは、しばしば芝・紅葉館が使用された[1]。 合資会社紅葉館は明治26年(1893年)11月に資本金42,000円で設立された。
株主は小野義眞(8,500円)、三野村利助、川崎八右衛門(4,200円)、喜谷市郎右衛門(3,500円)、安田善次郎(2,000円)、小西孝兵衛(2,600円)、中澤彦吉(2,100円)、山中隣之助(2,100円)、野邊地尚義(2,100円)、稲葉正邦、本野盛亨、山本直成、飯田文男の13名であった。
社長は定めず、野邊地尚義を業務担当人(館主、幹事)として、專ら事務にあたらせた。
建物は広間の他、茶室・湯殿・利休堂および新館によって構成されており、東京名所図会や東京銘勝会(浮世絵)[2]にも収録されている。近くに水交社があったため、海軍関係者も頻繁に利用していた。また尾崎紅葉、巌谷小波、小栗風葉など硯友社の文士たちをはじめ、芸術家、政治家などもサロンとして頻繁に利用していた。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した。4600坪に達した広大な敷地は日本電波塔株式会社に売却され、跡地には現在、東京タワーが立っている。
東京名所図絵[編集]
東京名所図絵では、「紅葉館は本堂の西北に在り近年新築せしものにて会員及びその他の懇親親睦等の宴席に供するものなり。傍らに能楽堂ありて能狂言を演ずる所とす。貴顕紳士の遊楽に供すという」と記されている[3]
新撰東京名所図絵[編集]
新撰東京名所図絵では「美姫、酌人、給士、舞妓として50余人の美姫を抱置き、客来とあらば花の如く衣飾らせて坐敷に列べ、其服装もわざと御守殿粧(ごしゅでんつくり)にして、縮緬(ちりめん)の小袖に紅葉の裾模様、帯の織出しは白茶地に色紙短冊を乱して、紅葉の秀歌名句を書きたり、絹足袋の摺足、目八分の通い、給仕は三指にて厳かなるこというべからす」[4]と記されている通り、女中は厳しく選ばれ、美人はもちろん、教養のある旧武士の子女を採用し、芸事の特訓を行い、紅葉館踊りを踊った。女中たちの特訓の総指揮は野辺地の役目であり、京都の女紅場での経験が買われ英会話の教育も実施した。
主な宴会[編集]
- 1881年(明治14年)3月12日、日本の新聞・雑誌の先駆者柳川春三の追悼会に神田孝平(元老院議官・日本最初の西洋経済学翻訳書著者)、福沢諭吉(慶応義塾大学創設者)、福地源一郎(岩倉使節団一等書記官)、加藤弘之(東京大学総長)、津田真道(オランダ留学・啓蒙思想家)、津田仙(津田塾創設者津田梅子の父)が参加した。
- 1881年(明治14年)、日本鉄道株式会社(日本初の私鉄)の設立祝宴会。
- 1889年(明治22年)、読売新聞創刊15周年祝賀会。
- 1891年(明治24年)、日本初の国語辞典『言海』完成祝賀会に大槻文彦、伊藤博文、勝海舟が参加。伊藤博文は「もう鹿鳴館の時代ではない」と挨拶した。
- 1898年(明治31年)、日本美術院創立披露宴に岡倉天心、横山大観。
- 1900年(明治33年)、政友会結党に伊藤博文、西園寺公望が参加した。
参考文献[編集]
- ↑ 桐浴邦夫(1998)「東京芝公園の紅葉館について」日本建築学会計画系論文集,第507号,pp.199-204
- ↑ 江戸・明治を歩く・紅葉館
- ↑ 中野了随(1890)『東京名所図絵』小川尚栄堂
- ↑ 風俗画報 臨時増刊(1898)『新撰東京名所圖繪第16編』東陽堂