瀬越憲作
瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年5月22日 - 1972年7月27日)は、日本の囲碁棋士。名誉九段。勲二等瑞宝章を受章。囲碁の海外普及に尽力した。
生涯[編集]
1889年広島県能美島生まれ。5歳のとき祖父の瀬越理兵衛(初段)から碁を教わった。1900年(明治33年)広島県立第一中学校(旧制)入学。中学校に入学した頃、2,3段のアマチュアと互角に戦えるようになっていた。碁のために学校は半分程度しか出席しなかった[1]。入学時の成績は120名中二番の成績であったが、3年時には全体の22番と低下した。1905年(明治38年)の夏休みに神戸で中根鳳次郎五段に三子で指導を受け、三目勝となる。また橋本藤三郎二段に先二の先番で中押勝であった。その時の碁は神戸新聞に掲載されている。碁は力だけではいけないと開眼した[1]。1908年(明治41年)9月、父が事業に失敗し、学費が続かず退学した。祖父に専門棋士になることを勧められ、中学5年1909年(明治41年)9月に政友会長老の望月圭介代議士に連れられて上京した。この年、「少壮碁客血戦会」碁会(会場は万世橋畔の巴倶楽部)で、小林健太郎三段に先着で勝ち、以後50局対局し、勝率80%をあげる。このときの情景は大町桂月が随筆集『行雲流水』[2]に記している。 同年、鈴木為次郎三段との試験碁に先相先で4勝2敗とし、飛付三段を許され、方円社に入門する。1912(明治45年)四段に昇進した。
1921年(大正10年)六段。1922年(大正11年)雁金準一、鈴木為次郎、高部道平と共に裨聖会を作る。1924年(大正13年)、日本棋院の創立に参画する。推薦により七段に昇進。1927年からの大手合東西対抗戦では鈴木為次郎とともに両軍の主将として活躍した。1928年(昭和3年)高橋重行との対局で万年コウ事件が起きる。勝敗が一時預かりとなるなど紛糾した。1942年(昭和17年)鈴木為次郎、加藤信とともに八段に推挙される。1944年には準名人戦出場。
1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の東京大空襲により日本棋院会館が焼失。1946年(昭和21年)、日本棋院理事長(初代)に就任する。1948年(昭和23年)に再建後の日本棋院会館(港区芝高輪)を開館させる。 1951年(昭和26年『「御城碁譜』を出版。1955年(昭和30年)引退。名誉九段を受ける。1958年(昭和33年)紫綬褒章受章。1959年(昭和34年)『明治碁譜』を出版。1966年(昭和41年)勲二等瑞宝章受賞。1972年(昭和47年)7月27日、老醜を厭い自決。 2009年囲碁殿堂入り。
人物[編集]
- 「瀬越囲碁講座」等100冊以上の著作を著し、囲碁の普及にあたった。
- 鈴木為次郎、加藤信とともに棋界の三長老と言われた。
- 1910年(明治42年)、徴兵検査で郷里に帰るとき、望月圭介代議士から巌崎健造社長に三段免状の希望を伝えた所、段を飛び越すのは稀有のことだとして、好敵手との試験碁として鈴木為次郎(当時三段)との六番勝負が打たれた。内分けなら二段、二番勝ち越せば三段という条件であった。第一局は黒番勝、第二局は黒番負、第三局は白番勝、第四局は黒番勝、第五局は黒番負。第六局は白番であったが、この碁に負けると田舎に戻るため、必死に戦い、二目勝を収め4勝2敗となり、三段を認められた[1]。
呉清源[編集]
1928年の呉清源の来日に尽力し、来日後は瀬越憲作門下とした。
著書[編集]
- 瀬越憲作(1916)『囲碁襲撃戦法』,大阪屋号
- 瀬越憲作(1920)『新進碁客争覇戦』,大阪屋号
- 瀬越憲作(1936)『本手とウソ手図觧 : 一見直觧』, 斯文館
- 瀬越憲作・山崎有民(1942)『呉清源と碁』,墨水書房
- 瀬越憲作(1947)『囲碁布石読本 : 原理と実戦』,棋園図書
- 瀬越憲作(1954)『死活攻防の急所』,棋園図書