東京日日新聞
東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は、かつて存在した日刊新聞である。東京最初の日刊紙で、現在の毎日新聞東京本社の前身である。
歴史[編集]
1872年3月29日(明治5年2月21日)、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎がらが、東京浅草茅町の条野の居宅から、日報社を設立し、『東京日日新聞』を創刊した。東京最初の日刊紙である[注 1]。雑報入りの「新聞錦絵」を発行した。1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として受け入れられる。
1874年(明治7年)、福地源一郎が入社して社説欄を創設した。福地桜痴(福地源一郎)の社説、 岸田吟香の雑報、成島柳北の雑録が、 三大名物とされた。
1877年(明治10年)、「太政官日誌」の廃止により、東京日日新聞の「太政官記事」、「広報」欄が官報の機能を代行するようになった。
明治13年(1880年)頃から政府批判の傾向が高まり、東京日日新聞は「御用新聞」と批判されるようになった。
明治15年(1882年)、『日本立憲政党新聞』が大阪で創刊され、明治18年(1885年)に『大阪日報』と改題し、明治21年(1888年)、『大阪毎日新聞』と改題された。
明治21年(1888年)、中立路線に転換し部数を大幅に伸ばした。
明治23年(1891年)、東京日日新聞は長州藩閥の機関紙的な紙面となり、政府寄りの紙面となる。その後伊藤博文や井上馨、三井財閥の支援を受ける。
明治37年(1904年)、三菱財閥により買収され、加藤高明が社長に就任した。
1911年(明治44年)に『大阪毎日新聞』が『東京日日新聞』を買収し、東京進出を果たした。
大正期には東京五大新聞(報知新聞・時事新報・國民新聞・東京朝日新聞・東京日日新聞)の一角となる。
昭和11年(1936年)、『東京日日新聞』が『時事新報』を合同した。
1943年(昭和18年)1月1日、東京日日新聞と大阪毎日新聞は新聞統制により題字を『毎日新聞』で統一した。名実共に全国紙となったが、東京日日新聞の題字はなくなった。
戦後、新聞社への新聞紙の割り当てが制限された1948年、毎日新聞のダミー夕刊紙として東京日日新聞の題字が復活したが、翌1949年に毎日新聞の夕刊が復刊して娯楽紙に転換したものの、1955年8月に休刊し、復刊した東京日日新聞は事実上廃刊した。
戦後の題字復活時に、印刷部門として「東京日日新聞印刷工場」を設立。1959年に「東日印刷」と改称され現在も盛業中である。また、東京日日新聞合併後の毎日新聞社は大阪に本社を置いたが、戦後の新旧分離再建時に東京に移転した。
脚注[編集]
- 注
- 参考文献