木谷道場
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木谷道場(きたにどうじょう)は、囲碁棋士木谷実九段が平塚及び四ツ谷で開設した囲碁棋士の私設養成所である。1985年から1988年まで七大タイトルを木谷一門で独占していた。70名以上が弟子入りし50名以上がプロ棋士となった。
歴史[編集]
1937年(昭和12年)から大磯町から平塚に転居し、その後、桃浜町に居を移して「平塚木谷道場」を開設し、日本全国だけでなく韓国からも才能豊かな弟子が集まり、ここで木谷は戦前・戦後を通し、プロの囲碁棋士を育てた。1962年5月からは東京都四谷三栄町に「四谷木谷道場」を開設した。 人材の多くは、木谷実が全国で行った指導碁(稽古碁)で見出した子供たちで、木谷はこの子供たちを何不自由なく囲碁だけに集中できる環境と場所を自宅に確保し、自分の子供と同じように育てた。 木谷が亡くなった後も「土曜木谷会」は妻・美春によって続けられ16年間行われた。
門下生[編集]
背景黄色は七大タイトル獲得者。
入門 | 棋士 | 段位 | 入段年 | 実績など |
---|---|---|---|---|
1 | 武久勢士 | 六段 | [1] | 一番弟子 |
2 | 梶和為 | 九段 | 1941 | |
3 | 松本篤二 | 八段 | 1941 | 大倉喜七郎賞 |
4 | 芦葉勝美 | 七段 | 1942 | 普及功労賞 |
5 | 中山繁行 | 五段 | ||
6 | 趙南哲 | 九段 | 1941[2] | 韓国棋院設立者 |
7 | 本田幸子 | 七段 | 1947 | 女流選手権優勝7回 |
8 | 小山嘉代 | 三段 | [3] | 大平修三の姉 |
9 | 筒井勝美 | 六段 | 1947 | 大倉喜七郎賞 |
10 | 石毛嘉久夫 | 九段 | 1943 | 中国囲碁使節 |
11 | 岩田達明 | 九段 | 1943 | 元棋士会長 |
12 | 大平修三 | 九段 | 1947 | 棋院選手権4連覇 |
13 | 尾崎春美 | 八段 | 1947 | 松原賞 |
14 | 加田克司 | 九段 | 1947 | 名人・本因坊リーグ |
15 | 小林禮子 | 七段 | 1956 | 女流戦優勝多数 |
16 | 小林祐子 | 初段 | ||
17 | 戸沢昭宣 | 九段 | 1956 | 勝率第1位賞・連勝賞 |
18 | 大竹英雄 | 九段 | 1956 | 名誉碁聖・名人4期など多数 |
19 | 尚司和子 | 三段 | 1961 | 普及功労賞 |
20 | 金島忠 | 九段 | 1968 | 首相杯準優勝 |
21 | 石榑郁郎 | 九段 | 1960 | 首相杯準優勝 |
22 | 春山勇 | 九段 | 1960 | 首相杯優勝『布石のベスポジ』 |
23 | 柴田寛二 | 初段 | [3] | |
24 | 上村邦夫 | 九段 | 1962 | 名人戦リーグ |
25 | 土田正光 | 九段 | 1961 | 連勝賞・勝率第一位賞 |
26 | 石田芳夫 | 九段 | 1963 | 二十四世本因坊・名人など多数 |
27 | 久島国夫 | 九段 | 1965 | 大手合第1部全勝優勝 |
28 | 加藤正夫 | 九段 | 1964 | 名誉王座、名人・本因坊 ほか多数 |
29 | 佐藤昌晴 | 九段 | 1964 | 優秀棋士賞、名人リーグ2期 |
30 | 額謙 | 六段 | 1969 | 『高段をめざすうわての置碁』 |
31 | 伊藤誠 | 九段 | 1964 | 六段戦準優勝 |
32 | 小林千寿 | 五段 | 1972 | 女流選手権戦優勝3連覇など |
33 | 宮沢吾朗 | 九段 | 1966 | 三大リーグ所属経験 |
34 | 趙祥衍 | 七段 | 1963 | 趙治勲の兄 |
35 | 金寅 | 九段 | 1958[2] | 国手6連覇,最高位,名人 |
36 | 趙治勲 | 九段 | 1968 | 名誉名人・二十五世本因坊 タイトル獲得数歴代1位 |
37 | 浅野英昭 | 八段 | 1966 | NHK杯出場 |
38 | 河燦錫 | 九段 | 1967[2] | 国手2連覇,王位 |
39 | 小林光一 | 九段 | 1967 | 名誉称号三冠 タイトル獲得数歴代3位 |
40 | 武宮正樹 | 九段 | 1964 | 本因坊4連覇・名人など |
41 | 石榑まき子 | 三段 | 1972 | 石榑郁郎夫人 |
42 | 小川誠子 | 六段 | 1970 | 女流史上2人目の500勝 |
43 | 井上国夫 | 八段 | 1968 | 七段戦準優勝 |
44 | 大戸省三 | 六段 | 1971 | |
45 | 尾越一郎 | 八段 | 1976 | 本因坊戦三次決勝 |
46 | 佐藤真知子 | 三段 | 1972 | 佐藤昌晴九段夫人 |
47 | 小林孝之 | 三段 | 1975 | 小林4兄弟 |
48 | 小林健二 | 七段 | 1975 | 新鋭トーナメント準優勝 |
49 | 小林覚 | 九段 | 1974 | 棋聖・碁聖など |
50 | 信田成仁 | 六段 | 1973 | 棋士会副会長 |
51 | 園田泰隆 | 九段 | 1976 | 新鋭トーナメント優勝 |
52 | 小山秀雄 | 五段 | 1974 | 三段戦準優勝 |
53 | 日高敏之 | 七段 | 1980 | |
54 | 尹奇鉉 | 九段 | 1959[2] | 国手2回 [4] |
全70名以上。50名以上がプロ入り[5]。
道場の生活[編集]
- 朝はそうじから始まり、碁の勉強、朝食へと進む。台所当番があり、時間になると、勉強の途中でも料理の手伝いをする。石田芳夫二十四世本因坊のキャベツの千切りとカレーは、語り継がれる絶品と言われる[6]。
- 勉強は早碁の一番手直りで、一か月に三百局以上打つ。各自が成績ノートを持ち、木谷先生の前へ持参して見てもらう。入段試験の最中は、一人ずつ先生の待つ応接室に入り、時間が長ければ好局、短ければ不出来、が目安になっていた。
- 木谷が、1963年、2度目の脳溢血に倒れた後から、木谷の研究会の師範役は、同じ鈴木為次郎名誉九段一門の梶原武雄九段になった。
- ピーク時に内弟子は30人を越えていた[7]
大竹英雄の場合[編集]
北九州市に生まれた大竹英雄は昭和26年12月、大竹英雄9歳 の時に木谷道場に入った。8歳から本格的に碁を習い始め、短い期間で腕をあげていた。昭和21年から木谷實は、地方まわりの指導碁のため、九州に入っていた。九州碁界の中心人物の高田寿夫と親交を深めて北九州へ赴くようになった。入門碁で九子を置かされた大竹は木谷の白石を皆殺しにしようとしたが、逆に黒石が皆殺しとなり、大声で泣いた。しかし木谷は筋の良さを見抜き、弟子入りさせた[8]。
石碑[編集]
平塚の木谷道場の跡地に石碑が立っている(神奈川県平塚市桃浜町1)[9]。平成13年(2001年)3月に当時の平塚市長によって建立されたものである。石碑に次の文が刻まれている。
囲碁界に尽くされた木谷實九段は昭和十四年から昭和五十年まで、この地の自宅を木谷道場として多くの内弟子を育てた。現在、弟子、孫弟子を合わせると五百段を超える棋士達がその意志を継いで活躍中である。
参考文献[編集]