加藤信

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加藤 信(かとう しん、1891年11月5日 - 1952年7月14日)は、明治時代から昭和時代前半にかけて活躍した囲碁棋士。八段。広瀬平治郎八段門下。方円社日本棋院棋正社に所属した。

経歴[編集]

1891年(明治24年)、東京市芝に生まれる。18歳で方円社より初段を許され、21歳で二段、23歳で三段。

大正末期、方円社の[[広瀬平治郎]社長を助け副社長となった。大正11年(1922年)、広瀬社長は方円社の丸ビル移転を計画し、後援者からの募金を募るがうまくいかず、集めた金5000円は加藤信が管理していた。中央棋院では会計を担当していたが、経営の窮状から坊門派は加藤信に集めた金を出せと迫ったため本因坊派と対立し、再度方円社と本因坊派の中央棋院に分裂した。4月に方円社棋士は分裂して方円社に戻った。同年9月の関東大震災で、当時丸ビルにあった方円社を、四谷の岩佐銈宅に移した。1924年(大正13年)1月、方円社は解散し、7月日本棋院の設立に参加した。しかし同年に脱退して棋正社に参加したが、昭和元年(1926年)に日本棋院に復帰した。1931年(昭和6年)、大手合制度により七段昇段。

第1期本因坊戦は諸強豪を破り決勝6番勝負で関山と3勝3敗の打分けとなったが、結局第1期本因坊は順位1位の関山利一となった。1943年(昭和18年)、推挙され八段になる。1952年(昭和27年)、逝去する。日本棋院の「棋院葬」が行われる。

参考文献[編集]