対馬忠行
対馬 忠行(つしま ただゆき、1901年(明治34年)11月18日 - 1979年(昭和54年)4月11日)は、思想家[1]、マルクス経済学者、トロツキー研究家[2]、社会運動家[3]。1956年のスターリン批判以前からソ連体制およびスターリン主義を批判、トロツキズムを紹介し、日本の新左翼に影響を与えた。
来歴[編集]
戦前[編集]
香川県大川郡志度町(現・さぬき市)で、地主兼砂糖製造業の家の五男として生まれた。京都府立京都第三中学校(現・京都府立山城高等学校)を3年で中退し、以後独学を続ける。クロポトキンや大杉栄の影響でアナキストになり、1923年4月に京都・嵐山でアナキストのデモに参加して初検挙され、その後もたびたび検挙された。同年6月にソ連入りを計画して上海に渡航したが、ソ連には行けず半年ほどで帰国した。
帰国後、河上肇を指導教官としていた京大社研の研究会に出席、河上の個人雑誌『社会問題研究』を熟読。さらに1925年11月に京大で福本和夫の講演を聴いて福本主義者となり、アナキズムからマルクス主義に転向した。1926年に上京し、労農党機関紙部員となった[4]。岩田義道との関係で日本共産党に接触し、1928年12月に講座派の立場から横瀬毅八の筆名で処女論文「日本無産階級運動発達史」を発表した[4][5]。日本共産党に正式に入党するが、32年テーゼの二段階革命論に疑問を感じ自然離党[4]。1935年から労農派の向坂逸郎に接近し[4]、労農派の立場から日本資本主義論争に参加した[1]。この頃から敗戦の頃まで育生社、岩波書店、東京商工会議所に勤務した[4]。
戦後[編集]
敗戦後の1946年、民主人民連盟の結成に参加。1947年7月に労農派の雑誌『前進』が創刊され、同誌の編集に参加。1948年11月、社会主義政党結成促進協議会(いわゆる「山川新党」)の結成に参加。同年12月、労働者農民党の結成に参加し[4]、同党の綱領を起草[6]。1949年10月に社会主義政党結成促進協議会が社会主義労働党準備会に改称、常任中央委員に就任(1951年3月解散)。1950年6月に山川均・向坂逸郎・高橋正雄らの再軍備反対論と、荒畑寒村・小堀甚二・対馬忠行らの民主的再軍備賛成論が対立し、労農派が分裂(8月『前進』廃刊)[4][7]。1951年4月、文化自由会議に参加[4]。
1950年1月からソ連およびスターリン主義への批判を開始、8月に『スターリン主義批判』を刊行し、反スターリン主義の先駆者の1人となった[1][4]。同年6月から7月にトロツキーの『わが生涯』『裏切られた革命』を読んで感銘を受けたが[4]、トロツキーの「ソ連=堕落した労働者国家」説には賛同しなかった。1952年頃には「ソ連=国家資本主義」説の立場から雑誌『オールド・ボルシェビキ』を刊行し、「イスクラ協会」というグループを組織していた[8]。1952年に刊行した『スターリン主義の批判』などは内田英世・富雄兄弟や太田竜に[8]、1956年に刊行した『クレムリンの神話』は黒田寛一に大きな影響を与え、1957年の日本トロツキスト連盟(のちの革共同)結成の契機となった[5]。また1958年に結成された共産主義者同盟(ブント)は、主として黒田寛一の哲学、対馬忠行のソ連論、宇野弘蔵の経済学を理論に採用していた[9]。
1961年から『トロツキー選集』(現代思潮社)の編集責任者を務め[2]、1968年まで編集・翻訳に携わった[4]。1963年に革共同が革マル派と中核派に分裂した後は、トロツキーを援用して内ゲバを批判した[5]。1975年6月に埴谷雄高、藤本進治らと発起人となり、内ゲバの停止を呼びかけて「革共同両派への提言」を発表した。対馬が起草したこの声明を革マル派は評価したが、中核派は革マル派による本多延嘉書記長虐殺に触れていないなどとして、全面的に拒否した。同年7月に埴谷が起草した「第二提言」が発表されたが、中核派から革マル派寄りと見られていた対馬、藤本は発起人から外れている[10]。
1970年に白内障手術の失敗で左眼を失明。1974年に無料の老人ホームに入居。1975年に長年連れ添ってきた妻を亡くす。1979年4月11日午後7時45分頃、瀬戸内海の播磨灘で船上から投身自殺、77歳[4]。遺された手紙には「マルクス曰く、レーニン曰く、曰く曰くで我が生涯は終りぬ」とあった[1]。遺体は8月11日になって浮上した[11]。
備考[編集]
- 1946年に向坂逸郎らが設立した歴史科学研究所の所員。1949年7月に山川均、向坂逸郎らが創設した社会主義研究会の会員[12]。
- 本多延嘉が1962年10月に革共同の機関紙『前進』に発表した論文によれば、対馬は「戦時中にファシスト的な労作『総力戦経済学』や『国防国家建設の史的考察』を執筆し、戦後は労農派に再転向して、戦後日本革命の敗北の一契機をなす左翼社会民主主義者の裏切りを美化する役割をはたし、かつまた、『自由の旗の下に』などという国際的な反共雑誌の事務長であった」とされる[13]。小山弘健の『戦前日本マルクス主義と軍事科学』(エスエル出版会、発売:鹿砦社、1985年)によれば、土屋喬雄の『国家総力戦論』(ダイヤモンド社、国防科学叢書2、1943年)は対馬が執筆したものだとつたえられている。小山は対馬の生前に確かめることができず、土屋に依頼状を出したが返事を貰えずにいるという[14]。
- 河出書房の肝いりで1946年から1年ほど続いた資本論研究会に出席した。相原茂によると、12名の出席者のうち、久留間鮫造、大内兵衛、有沢広巳、向坂逸郎、宇野弘蔵、土屋喬雄、高橋正雄が主役格で、末永茂喜、岡崎三郎、対馬忠行、鈴木鴻一郎、相原茂は下働きとして問題の提起や要約の作成などを準備した[15]。研究会は戦後の価値論論争の出発点となった[4]。
- 反共のマルクス研究者・廣西元信と交流があった。
- 革共同・中核派の機関誌『共産主義者』の第25号(1966・8)に「スターリンと日本共産党」、第17号(1967・7)に「〈寄稿〉山村克君への反批判」を寄稿している[16]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『「日本資本主義論争」史論』 黄土社、1947年
- 『日本資本主義論争史論』 こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2014年
- 『民主主義革命論――戦略論的研究』 角川書店、1949年
- 『日本におけるマルクス主義――二つの偏向に對する闘爭』 三元社、1949年
- 『ブランキ主義とマルクス主義』 弘文堂(アテネ文庫)、1950年
- 『スターリン批判』 弘文堂(アテネ文庫)、1950年
- 『スターリン主義の批判――マルクスの社会主義社会論』 青山書院、1952年
- 『クレムリンの神話――ソ連は社会主義の国に非ず』 実業之日本社、1956年
- 『クレムリンの神話』 山口勇編・解説、こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、1996年
- 『ソ連「社会主義」の批判』 論争社(論争叢書)、1959年
- 『労農派とその分裂』 東京政治研究所編、社会思潮社[東京政治研究所パンフレット]、1960年
- 『ソ連共産党党内闘争史――レーニン死後』 民主主義研究会、1963年
- 『国家資本主義と革命』 現代思潮社、1964年
- 『マルクス主義とスターリン主義』 現代思潮社、1966年、新版1974年
- 『トロツキズム』 風媒社、1967年、増補改訂版 1971年
- 『ゼネスト・バリケード・ソヴィエト・党――続・トロツキズム』 風媒社、1969年
- 『天皇と明治維新』 国書刊行会、1976年
- 『トロツキー入門』 松田政男解題、こぶし書房、2007年
共著[編集]
編著[編集]
- トロツキー『トロツキー選集(全12巻補巻3)』現代思潮社、1961-68年
監修[編集]
- L・トロツキー『トロツキー選集 第2期(2・3・10・11・13・16巻)』現代思潮社、1969-73年
- ジェーン・デグラス編著『コミンテルン・ドキュメント(全3巻)』現代思潮社、1970-72年
訳書[編集]
- トロツキー『トロツキー選集 第4巻 レーニン死後の第三インターナショナル』現代思潮社、1961年
- トニー・クリフ『ロシア=官僚制国家資本主義論――マルクス主義的分析』姫岡玲治共訳、論争社、1961年
- ラーヤ・ドゥナエフスカヤ『疎外と革命――マルクス主義の再建』三浦正夫共訳、現代思潮社、1964年
- トロツキー『1905年革命・結果と展望』榊原彰治共訳、現代思潮社、1967年/現代思潮社、新装版1975年
- トニー・クリフ『ソ連官僚制国家資本主義批判』風媒社、1968年
- トロツキー『トロツキー選集 補巻2 裏切られた革命』西田勲共訳、現代思潮社、1968年
- トニー・クリフ『現代ソ連論――そのマルクス主義的分析』風媒社、1968年
- トロツキー『レーニン死後の第三インターナショナル』現代思潮社(トロツキー文庫)、1969年/現代思潮社、新装版1975年
- トロツキー『裏切られた革命』西田勲共訳、現代思潮社(トロツキー文庫)、1969年
- ジェーン・デグラス編著『コミンテルン・ドキュメント 2――1923-1928』救仁郷繁、石井桂、荒畑寒村共訳、現代思潮社、1970年
- C.L.R.ジェームズ『世界革命――1917〜1936 コミンテルンの台頭と没落』塚本圭共訳、風媒社(風媒社現代史選書)、1971年
- ジェーン・デグラス編著『コミンテルン・ドキュメント 3――1929-1943』雪山慶正、石井桂共訳、現代思潮社、1972年
分担執筆・翻訳[編集]
- 河上肇、大山郁夫監修、政治批判社編『マルクス主義講座 第12巻』マルクス主義講座刊行会、1928年
- 河上肇、大山郁夫監修、政治批判社編『マルクス主義講座 第13巻』マルクス主義講座刊行会、1929年
- 明治政治史研究会編『明治政治史研究 第一輯』ナウカ社、1936年
- 向坂逸郎、宇野弘蔵編『資本論研究――商品及交換過程』河出書房、1948年
- 向坂逸郎、宇野弘蔵編『資本論研究――流通過程』河出書房、1949年
- 向坂逸郎、宇野弘蔵編『資本論研究』至誠堂、1958年
- 松浪信三郎編『人間疎外』 至文堂(現代のエスプリ)、1968年 - R.ドゥナエフスカヤ著、三浦正夫共訳「疎外と革命」
- レーニン『「ブハーリン著過渡期経済論」評註』公文俊平訳、現代思潮社、1967年
- 玉野井芳郎編『現代の経済組織』日本評論社、1970年
- 雪山慶正著、雪山慶正遺稿集刊行会編『悲劇の目撃者――雪山慶正・その人間と時代』国書刊行会、1975年
- 松沢哲成、鈴木正節インタビュー構成『昭和史を歩く――同時代の証言』第三文明社、1976年
- 対馬忠行追悼論文集刊行会編『対馬忠行――反スターリン主義の先駆け』対馬忠行追悼論文集刊行会、1983年
- 小山弘健『戦前日本マルクス主義と軍事科学』エスエル出版会、発売:鹿砦社、1985年
- 青木孝平編著『天皇制国家の透視――日本資本主義論争1』社会評論社(思想の海へ「解放と変革」)、1990年
出典[編集]
- ↑ a b c d いいだもも「対馬忠行」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1051頁
- ↑ a b 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』平凡社、1987年、645頁
- ↑ 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』日本図書センター、2006年、366頁
- ↑ a b c d e f g h i j k l m 対馬忠行追悼論文集刊行会編『対馬忠行――反スターリン主義の先駆け』対馬忠行追悼論文集刊行会、1983年
- ↑ a b c しまねきよし「対馬忠行」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、850頁
- ↑ 小林良彰『戦後革命運動論争史』三一書房、1971年、45頁
- ↑ 山川菊栄『山川菊栄集8 このひとびと』岩波書店、1982年
- ↑ a b 日本革命的共産主義者同盟小史
- ↑ 絓秀実『1968年』筑摩書房(ちくま新書)、2006年、53頁
- ↑ 立花隆『中核VS革マル(下)』講談社(講談社文庫)、1983年、202-206頁
- ↑ 陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』現代思潮新社、2014年
- ↑ 対馬忠行『日本におけるマルクス主義――二つの偏向に對する闘爭』三元社、1949年
- ↑ 二 バンガリア革命と反スターリン主義運動の創成
- ↑ 土屋喬雄『国家総力戦論』は対馬忠行著か? - 虚構の皇国
- ↑ 相原茂「資本論研究会と久留間先生」『研究資料月報』第294号、法政大学大原社会問題研究所、1983年3月
- ↑ 過去の『共産主義者』の全目録①(1号から154号) - 季刊『共産主義者』
参考文献[編集]
- 佃實夫ほか編『現代日本執筆者大事典 第4巻 (人名 ひ~わ)』日外アソシエーツ、1978年
- 山崎一夫「対馬忠行」、戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年
- 対馬 忠行(ツシマ タダユキ) - コトバンク
- 対馬忠行(つしま ただゆき) - コトバンク
関連文献[編集]
- 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年――自嘲生涯記』青土社、1983年/航思社、2024年
- 日本アナキズム運動人名事典編集委員会編『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版、2004年
- 石河康国『労農派マルクス主義――理論・ひと・歴史 上巻』社会評論社、2008年
- 吉本隆明『「情況への発言」全集成2』洋泉社(MC新書)、2008年