革命的共産主義者同盟全国委員会
革命的共産主義者同盟全国委員会(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいぜんこくいいんかい)は、革共同系の新左翼党派。通称は中核派(ちゅうかくは)。
組織[編集]
- 指導者:清水丈夫議長、秋月丈史書記長
- 下部組織:マルクス主義青年労働者同盟、マルクス主義学生同盟・中核派
- 拠点:東京都江戸川区松江1-12-7 前進社
- 機関紙誌:機関紙『前進』(週2回・木発行)、機関誌『共産主義者』(季刊)
- 勢力:警察庁によれば約4700人(2018年1月現在)[1]
- 共産主義社会の実現を目的とした「反帝国主義・反スターリン主義世界革命」を目指す[2]。
概要[編集]
革マル派とともに新左翼の二大党派、革労協も合わせて新左翼の三大党派といわれる。しばしば大衆運動・武装闘争重視の中核派、組織建設・理論学習重視の革マル派という形で対比される。中核派は60年代後半から70年代にかけて羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子闘争、新宿闘争など急進的な街頭闘争の先頭に立った。その中で1966年に社学同、社青同解放派と三派全学連を結成するなど他党派との共闘も行なった。1970年に華青闘のメンバーが中核派をはじめとする新左翼党派の差別性を批判し、中核派が自己批判を行ってからは、入管闘争や狭山闘争、女性や障害者などマイノリティの差別問題にも積極的に関わるようになった(華青闘告発/7・7自己批判)。1970年に中核派が革マル派活動家の東京教育大学生を殺害する事件(海老原事件)、1972年に革マル派が早稲田大学生を中核派シンパと誤認して殺害する事件(川口大三郎事件)、1975年に革マル派が中核派の本多延嘉書記長を殺害する事件を起こした。両組織の間の内ゲバがエスカレートし、多数の死傷者を出した。中核派は街頭闘争の先頭に立ったことに加え、内ゲバを主導してきた革マル派と対峙したことで他党派や無党派からも支持を集めた。しかし、1984年に三里塚闘争をめぐる方針の違いから第四インターの活動家を一方的に襲撃して重傷を負わせたり、法政大学や京都大学などの拠点校で恐怖支配を強めるようになったりしたことで他党派や無党派からの支持を失った。80年代には多数のテロ・ゲリラ事件を引き起こし、革労協、戦旗派とともに「ゲリラ三派」と呼ばれた。90年代以降はテロ・ゲリラや革マル派との内ゲバを控え、動労千葉をはじめとする労働運動を重視するようになった。このような路線転換の中で2000年代には革命的共産主義者同盟再建協議会の分裂、部落解放同盟全国連合会(全国連)との関係断絶、「都政を革新する会」からの杉並区議2名の離脱、政治局員の水谷保孝・岸宏一の除名などの事態が生じた。
出典[編集]
- ↑ “極左暴力集団の現状等(PDF)”. 警察庁 (2018年1月). 2019年3月1日確認。
- ↑ 革命的共産主義者同盟とは 革命的共産主義者同盟全国委員会
関連文献[編集]
- 奥浩平『青春の墓標――ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋新社、1965年)
- 立花隆『中核VS革マル』(講談社、1975年/上・下、講談社文庫、1983年)
- 白井朗『中核派民主派宣言――新左翼運動の再生』(社会批評社、2000年)
- 小西誠『中核派VS反戦自衛官――中核派議長・清水丈夫の徹底批判』(社会批評社、2002年)
- 高井戸政行『雲と火の柱――地下生活者の手記』(上方文化研究所(子の星)、2008年)
- 中川文人、外山恒一『ポスト学生運動史――法大黒ヘル編 1985〜1994』(彩流社、2010年)
- 水谷保孝、岸宏一『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』(白順社、2015年)
- 尾形史人『「革共同五〇年」私史――中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって』(社会評論社、2016年)
- 高田武『地下潜行――高田裕子のバラード』(社会評論社、2018年)