共産主義者同盟 (日本)
共産主義者同盟(きょうさんしゅぎしゃどうめい)は、1958年12月10日に日本共産党を除名された全学連主流派が結成した新左翼党派。略称は共産同、通称はブント。
概要[編集]
結成当初は前年に結成されていた日本革命的共産主義者同盟(革共同)のメンバーも参加していた。1958年12月13日に革共同が全学連の主導権を握ったが、翌1959年6月に共産同が奪い返し、60年安保闘争を主導した。1960年6月15日の国会構内抗議集会で同盟員の樺美智子が警官隊との衝突の中で死亡した。安保闘争敗北後に「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」の3派に分裂して解体し(第一次ブント、安保ブント)、多くが革命的共産主義者同盟全国委員会(後の中核派・革マル派)に移行した。関西地方委員会は分裂せずにそのまま残り、1962年に関西ブントを結成した。1966年9月に関西ブントも加えて再建され、中核派・社青同解放派と共に三派全学連を結成して70年安保闘争を主導したが、分裂を繰り返し1970年に再び解体した(第二次ブント)。機関紙は『戦旗』。下部組織は社会主義学生同盟(社学同)。1969年に結成された赤軍派は日本赤軍や連合赤軍の母体となった。1980年代、共産同系の党派では戦旗荒派、社労党、赫旗派、戦旗両川派、マル青同、烽火派、前衛派がそれぞれ100名以上の勢力を有していた。
名称[編集]
党名は青木昌彦の提案により、1847年にロンドンで結成された共産主義者同盟に因んで付けられた[1]。後に中核派の政治局員となる小野田猛史が提案したという説もある[2]。
事務所[編集]
1959年1月に東京都文京区元町に事務所を開設。世界労働運動研究所の表札を掲げた。それ以前は島成郎書記長、新妻とその母親の3人が住む高円寺のアパートを事務局としていた[3]。1960年の1・16羽田闘争の後に千代田区神田神保町の靖国通りに面した2階建の建物に移転した[4]。1階がブントの出版社「リベラシオン社」、2階がブントの事務所として使用され、文京区元町の事務所は機関紙『戦旗』の購読事務を扱うだけの事務所となった[5]。