日本トロツキスト連盟
日本トロツキスト連盟(にほんトロツキストれんめい)は、1957年1月から同年12月まで存在した新左翼党派。通称はトロ連。1957年12月に日本革命的共産主義者同盟(革共同)に移行した。日本で最初にトロツキズムを掲げた政治組織であり、1958年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)と共に日本における新左翼運動の源流となった。
経過[編集]
日本共産党が「武装闘争」方針を放棄した1955年の六全協、1956年のスターリン批判とハンガリー事件、この三つの出来事を主な契機にして、共産主義者の間にそれまで絶対的権威をもっていた日本共産党とソ連への批判が起こり始める。批判者の一部はスターリンを批判していたレフ・トロツキーの理論に依拠した。
戦前に治安維持法で逮捕された経験を持つ元日本共産党国際派で、群馬県の労働者内田英世・富雄兄弟は、1952年ごろからトロツキー研究を始め、1956年3月「新しい共産党を作る」と称してトロツキズムの普及のための新聞『反逆者』(群馬政治経済研究会)を創刊した。1956年当時、「新しい共産党を作る」ために活動を開始していたグループは、内田兄弟の群馬グループの他に以下があった。これらのグループが相互に影響を与えあい、太田の働きかけにより合流する形で結成されたのが「日本トロツキスト連盟」である。
- 山西英一の三多摩グループ。山西は戦前からトロツキーの著作を訳出していた。戦後、三多摩地域で日本社会党への加入活動を独自に続け、社会党組織の発行物に世界情勢分析を掲載したり、トロツキーを紹介したりしていた。時期尚早としてトロ連には参加しなかった。
- 西京司・岡谷進の関西グループ。西は日本共産党京都府委員。トロ連には遅れて参加したが、関西を中心に影響力を持った。後に第四インター日本支部の創始者の一人となり、生涯トロツキストの立場を貫いた。
- 太田竜と「レーニン主義研究」グループ。太田は社会党青年部への加入戦術に失敗し、独自活動を行っていた。後に第四インター日本支部の創始者の一人。その後、アイヌ解放論者から環境保護論者、陰謀論者へと転ずる。
- 黒田寛一のグループ。黒田は主体性論の研究を手がけ、マルクス主義の研究会「弁証法研究会」を主催、雑誌『探究』を発行していた。後に「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げる革マル派の創始者。
1957年1月17日、内田英世、太田竜、黒田寛一の3人が「第四インターナショナル日本支部」結成の会合を開く。
1957年1月27日、内田兄弟、太田竜、黒田寛一らが第四インター日本支部準備会として「日本トロツキスト連盟」を結成。当初は思想同人的なサークルであった。機関紙は『反逆者』。
1957年3月以降、関西グループが合流。
1957年4月、西京司が参加。
1957年5月2日、機関紙を『反逆者』から『第四インターナショナル』に改題。
1957年7月、内田英世が離脱。
1957年12月1日、日本革命的共産主義者同盟に改称した。その後、革共同は分裂を繰り返し、中核派、革マル派、第四インター日本支部などの党派が生まれた。
参考文献[編集]
- 絓秀実、井土紀州、松田政男、西部邁、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔、上野昂志、丹生谷貴志『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』明石書店、2005年
- 戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年
- 高沢皓司、高木正幸、蔵田計成『新左翼二十年史――叛乱の軌跡』新泉社、1981年
- 立花隆『中核VS革マル(上)』講談社(講談社文庫)、1983年
- 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年
- 日本革命的共産主義者同盟小史
関連項目[編集]
- 対馬忠行 - トロツキーを早くから紹介して内田、太田、黒田らに影響を与えた。