日本革命的共産主義者同盟

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日本革命的共産主義者同盟(にほんかくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめい)は、日本の新左翼党派。略称は革共同(かくきょうどう)。

1957年12月に日本トロツキスト連盟が改称する形で結成され、1958年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)と共に日本における新左翼運動の源流となった。分裂を繰り返し、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)(第四インター)、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)などの党派が生まれた。

概要[編集]

1957年1月27日、内田英世・富雄兄弟、太田竜黒田寛一らが第四インター日本支部準備会として日本トロツキスト連盟を結成した。日本共産党京都府委員の西京司岡谷進ら関西グループの合流、内田英世の離脱を経て、同年12月1日に日本革命的共産主義者同盟(革共同)に改称した。当初は思想同人的なサークルであった。機関紙は『第四インターナショナル』。1958年4月5日に『世界革命』に改題。

1958年7月、トロツキズムを掲げパブロ派を支持する太田派と、トロツキズムは批判的に摂取すべきとする黒田派が対立する。太田派は反帝国主義・労働者国家無条件擁護、社会党への加入戦術を、黒田派は反帝国主義・反スターリン主義を主張した。西、岡谷らは中間に立った。少数派の太田派は革共同を脱退して関東トロツキスト連盟を結成した(革共同第一次分裂)。

太田派が脱退した後、キャノン派路線の下に第四インターナショナルへの参加を目指す西、岡谷ら関西派と、「反帝・反スタ」を掲げ「革命的マルクス主義グループ」を名乗る黒田派が対立する。太田脱退後に組織が壊滅状態に陥ったため、関西派は機関紙『プロレタリアート』を発刊した[1]。1958年12月に関西派は中央書記局及び中央機関紙『世界革命』編集局を京都に移し、機関誌『第四インターナショナル』を発刊した[1][2]。1959年に黒田が民青の情報を警視庁公安に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚する。同年8月の革共同第1回全国大会で中央書記局は事件の中心人物大川の除名、黒田の一定期間の活動停止処分を提案するつもりだったが、本多延嘉ら黒田派は大会2日目に途中退出し、1959年8月31日に日本革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を結成した(革共同第二次分裂[1]。「関西派」は黒田派がネーミングしたもので、自己を革共同全国委員会と称し、関西に設置された中央を一地方組織のように印象づけるためだとされる[3]

第一次分裂で外に出た関東トロツキスト連盟は日本トロツキスト同志会、国際主義共産党(ICP)、第四インターナショナル日本委員会と名を変え、1960年3月に反太田の多数派と太田支持の少数派に分裂した。1960年11月に革共同関西派と第四インターナショナル日本委員会の多数派が統一し、第四インターナショナル日本支部・日本革命的共産主義者同盟(JR)を結成した。第四インターナショナル日本委員会の少数派(太田派)はICPの名称を復活させた。1965年2月にJRとICPが統一し、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)を結成した。

革共同全国委では、1962年9月の革共同全国委第三回総会の「三全総路線」をめぐって政治局多数派の本多派と、政治局少数派の黒田派が対立する。本多らは地区党組織への再編・他党派とも共闘した大衆運動路線を、黒田らは産業別組織の維持・イデオロギー闘争路線を主張し、全学連内部でも大学管理法案反対闘争での統一行動をめぐって対立が起きた。1963年4月1日に黒田派は革共同全国委から分裂して日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成した(革共同第三次分裂)。革共同全国委の学生組織「日本マルクス主義学生同盟」では黒田派が多数派を占め、本多派は分裂して「マルクス主義学生同盟・中核派」を結成したことから、上部団体の革共同全国委も中核派と呼ばれるようになった。

出典[編集]

  1. a b c 西京司『日本トロツキズム運動の形成――西京司論文集』柘植書房、1976年、「まえがき」
  2. 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、162-163頁
  3. 寺岡衛著、江藤正修編「第四インター日本支部はなぜ破綻したのか――社会革命とロシア革命史観の再検討――政治グループ・MELT

参考文献[編集]