日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(にほんかくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいかくめいてきマルクスしゅぎは)は、革共同系の新左翼党派。略称は革共同・革マル派、英語名は Japan Revolutionary Communist League (Revolutionary Marxist faction)[1]。通称は革マル派。
組織[編集]
- 指導者:植田琢磨議長
- 下部組織:日本マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派
- 拠点:東京都新宿区早稲田鶴巻町525-3 解放社
- 機関紙誌:機関紙『解放』(週刊)、機関誌『新世紀』(隔月刊)
- 勢力:警察庁によれば約5500人(2018年1月現在)[2]
- 「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げ、プロレタリア世界革命及びその一環としての日本国家権力の打倒、同時にスターリン主義の打倒を目指している[3]。
概要[編集]
中核派とともに新左翼の二大党派、革労協も合わせて新左翼の三大党派といわれる。両組織との間で内ゲバを繰り広げ、多数の死傷者を出した。1975年に中核派書記長の本多延嘉、1977年に革労協書記長の中原一を殺害したが、革マル派議長の黒田寛一は殺害されることなく2006年に78歳で亡くなるまで最高指導者であり続けた。組織の排他性・閉鎖性が強く、他党派と比較して様々な特異性が指摘されている。しばしば大衆運動・武装闘争重視の中核派、組織建設・理論学習重視の革マル派と対比される。
60年代から70年代の街頭闘争の高揚からは距離を置き、組織の維持・拡大や理論学習を重視した。中核派や解放派が他党派とも共闘したのに対し、革マル派は他党派への誹謗に力を入れた。1969年の東大闘争では機動隊が安田講堂に突入する前日に組織温存のために持ち場を離れたため、新左翼の中での孤立を深めた。労働運動では国鉄動力車労働組合(動労)の執行部を掌握し、新左翼としては唯一全国規模の産業別労働組合に影響力を持っていた。1986年に動労は国鉄分割民営化反対から賛成に転じたが、JRでの革マル派の組織温存が目的であったとされる。革マル派を脱退したという松崎明の主張は本当なのか、動労の後身の全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)・東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)に革マル派の影響力があるのかどうかについては様々な見方がある。公安警察は90年代に革マル派が警察無線の傍受や電話の盗聴、家宅侵入といった非合法・非公然活動を活発に行なっていることを知るまで同派の危険性を過小評価してきたとされる。
黒田哲学の学習を重視しているとされ、「理論の革マル」といわれる一方、黒田を教祖とするカルト集団とも非難される。労働者至上主義・階級闘争至上主義的な立場をとり、女性や障害者、在日朝鮮人、部落差別などマイノリティの問題を重視せず、入管闘争や狭山闘争、三里塚闘争とは距離を置いている。1974年から内ゲバをめぐって権力謀略論を主張しているが、90年代には神戸連続児童殺傷事件やO-157も権力の謀略であると主張するほど陰謀論をエスカレートさせた。傘下の出版社として「有限会社こぶし書房」や「有限会社KK書房」を持ち、出版物は一般書店でも流通している。
最大の拠点校は早稲田大学であるが、1990年代から2000年代に大学当局は革マル派の排除を目指す取り組みを行った。その他の拠点校に北海道大学、國學院大学、津田塾大学、学習院大学、愛知大学、名古屋大学、金沢大学、大阪経済大学、奈良女子大学、鹿児島大学、琉球大学、沖縄国立大学などがある。
出典[編集]
- ↑ 革共同・革マル派公式ホームページ
- ↑ “極左暴力集団の現状等(PDF)”. 警察庁 (2018年1月). 2019年3月1日確認。
- ↑ 高木正幸『新左翼三十年史』土曜美術社、1988年、26頁
関連項目[編集]
関連文献[編集]
- 立花隆『中核VS革マル』(講談社、1975年/上・下、講談社文庫、1983年)
- 野村旗守『Z(革マル派)の研究』(月曜評論社、2003年)
- 鴻上尚史『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(集英社、2006年)
- 樋田毅『彼は早稲田で死んだ――大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、2021年)