内田英世・富雄
内田 英世(うちだ ひでよ[1])と内田 富雄(うちだ とみお?)の兄弟は、日本のトロツキスト。群馬県の労働者[1][2]。生没年不詳。
経歴・人物[編集]
群馬県出身[3]。内田富雄は1943年暮[† 1]、軍事基地前で反戦ビラを撒き治安維持法違反で逮捕され、荻窪警察署、巣鴨刑務所を経て、豊多摩刑務所に収監された。志賀義雄、中西功など共に収監されていたことから「獄内委員会」に参加し、敗戦前から事実上共産党員として活動していた[4]。兄の英世も近衛師団にいた1944年1月26日、反戦思想を持っていたため[1]に治安維持法違反で逮捕され、代々木の陸軍刑務所に収監された。共に獄中で敗戦を迎え、戦後すぐに日本共産党に入党した[4]。
共産党が分裂した50年問題の際、英世は群馬県中毛地区委員会書記から県委員会書記を務め、富雄は前橋地区委員会から伊勢崎地区委員会に移り地区委員長を務めていた。国際派に所属して除名されたため、20~30人のメンバーで群馬国際派グループとして活動を続け、機関紙『建設者』を発行した。英世は大学在学中から経済学を専門にしていたこともあり、1952年に発表されたスターリンの『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』に批判を持つ。1953年5月、対馬忠行の『スターリン主義批判』(1952年発行)を読んでスターリンに対する批判を深め、対馬と連絡を取る。対馬を通して太田竜と連絡を取り、太田が持参した山西英一贈呈の『次は何か』により、初めてトロツキーを読む。その後『中国革命論』なども読んでトロツキズムの立場に接し、独自のグループを結成して新聞『先駆者』を発行、自筆の「スターリン論文批判」を掲載した[4]。
1956年3月、内田兄弟を中心にした群馬政治研究会は「新しい共産党をつくる」としてトロツキズム・第四インターナショナルの立場に立つガリ版刷り[1]の新聞『反逆者』を創刊した。メンバーの数は6~7人になっていたが[4]、この新聞を読んで共感した太田竜も発行に参加し始め[1]、太田はハンガリー革命の衝撃をきっかけに松田政男など各地に『反逆者』を送付、56年10月には黒田寛一に接触している[3]。英世は56年3月に「日本共産主義労働党」を結成したとされる[5]。
1957年1月17日に内田英世、太田竜、黒田寛一の3人は「第四インターナショナル日本支部」結成の会合を開き[1]、27日に内田兄弟、太田竜、黒田寛一らは第四インターナショナル日本支部準備会として「日本トロツキスト連盟」を結成し、内田の『反逆者』がその機関紙となった[4]。トロ連内部では太田の対馬批判をきっかけに「ソ連論」を主とした内田-太田論争が起こった。対馬忠行は「ソ連=国家資本主義説」をとり、内田はそれに近い「半資本主義的労働者国家説」を主張していたとされる。7月に内田英世は太田との対立でトロ連を離脱した。内田自身は「再度勉強し直そうというのが、組織をぬけた主な理由であった」と語っているとされる[4]。内田兄弟は9月にトロ連を除名されたとされ、その後の消息はよくわかっていない[3]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 加藤哲郎、伊藤晃、井上學編『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社、2006年、361頁
- 蔵田計成「日本トロツキスト連盟」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、221頁
- 小森恵著、西田義信編『治安維持法検挙者の記録――特高に踏みにじられた人々』文生書院、2016年、118頁
- 高沢皓司、高木正幸、蔵田計成『新左翼二十年史――叛乱の軌跡』新泉社、1981年
- 松村良一「日本革命的共産主義者連盟」『戦後革命運動事典』211-212頁