大杉栄

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大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年明治18年)1月17日 - 1923年大正12年)9月16日)は、社会運動家、ジャーナリスト。無政府主義者革命思想家として知られている。

略歴[編集]

香川県で生まれる。父が陸軍の将校であったため、最初は軍人になることを夢見て陸軍の幼年学校に入学していたが、ここで上官に対する反抗と男色事件を起こして退校を余儀なくされた。その後、東京外語大学仏語科に転じ、ここを卒業した。やがて万朝報社会主義思想や足尾銅山鉱毒事件に触れたことが原因で、平民社幸徳秋水堺利彦らと交わるようになり、社会の変革を目指すようになった。

明治39年(1906年)に電車料金値上げ反対運動に参加し、明治41年(1908年)には金曜会屋上演説事件で治安警察法違反となり、さらに赤旗事件に関与して逮捕起訴投獄の生活を繰り返した。幸徳と関係があったため、明治43年(1910年)の大逆事件で幸徳が逮捕された際には危うく関与が追求されたが、何とか連座を免れている。だが、幸徳の影響を受けてアナーキズムの立場を鮮明化し、クロポトキンの翻訳文などを発表した。明治44年(1911年)に大逆事件の結果、幸徳らが死刑になった後、大杉は荒畑寒村らと『近代思想』を創刊する。大正3年(1914年)には『平民新聞』を発行するが、政府によって発禁処分にされた。

幸徳の死後はアナーキズム理論と運動の第一人者としてその地位を高め、「悪魔」とも「英雄」とも評された。大杉自身は非常に自由奔放で反抗心に満ちた行動を常としており、当時は異端だった「自由恋愛」を実践したが、そのために女性関係も波乱万丈だった。大正5年(1916年)には新しい愛人の伊東野枝に心を移したことを理由に、それまでの愛人だった神近市子に刺されるという報復まで受けている(日蔭茶屋事件)。

大正6年(1917年)にロシア革命が勃発し、その結果としてレーニンによる社会主義政権が誕生した際、大杉は当初はこの新国家の誕生を歓迎したが、やがてそのやり方を見て反対に走るようになる。レーニン政権が人民解放を目指していながら、結局は新権力が人民を新たに抑圧しており、さらに無政府主義者たちに残虐な弾圧を加えていたためである。だが、ロシア革命を歓迎して支持する左翼の活動家らは大杉らとアナ・ボル論争を起こして対立。大杉はこの際に「ボルシェビキ国家は残忍極まり、共産党は陰険極まる」「世界の革命的労働運動は、ボルシェビキ政府が(中略)異説者に対して加へている(中略)血と殺人との制度はもう知ってもいい時だ」と、まるでその後のソ連政権の末路を暗示していたようなことを言っている。この論争で大杉は近藤憲二和田久太郎らと北風会を結成し、ボル派の主導による労働戦線統一を拒否したため、これまで親交のあった堺利彦をはじめ、山川均、荒畑寒村らと対立することになる。堺らボル派は大杉を無視して大正11年(1922年コミンテルンの指導を受けて、秘密裏に日本共産党を結成し、やがて運動や論争はボル派の優位になっていくことになる。

大正12年(1923年)、大杉は渡仏して、首都パリ近郊のメーデー集会で演説したことにより、現地警察に逮捕される。しばらく同地で入獄した後に追放されて日本に強制送還された。そして帰国すると、自由連合派の労働運動による巻き返しを図った。ところが9月に関東大震災が発生すると、そのどさくさで左翼や朝鮮人などが井戸に毒を入れたなどというデマが飛び交い、帝都は大混乱状態になる。その大混乱の中で大杉は鶴見の弟の一家を訪問して帰宅する途中の新宿の大杉の自宅近くの路上において、憲兵大尉だった甘粕正彦らによって大手町の東京憲兵隊に連行され、同日夜に伊藤野枝や甥の橘宗一と共に憲兵司令部で虐殺された(甘粕事件)。38歳没。死因は扼殺と見られており、しかも大杉らの遺体は菰に包まれて憲兵隊構内にあった古井戸に投げ込まれたという。

後に軍から連絡を受けた同志によって大杉らの遺体は引き取られ、荼毘に付された。3人の葬儀12月16日に谷中葬儀場で予定されていたが、当日の朝に右翼団体大化会の会員が遺骨を強奪するという事件を起こしたので(大杉栄遺骨奪取事件)、斎場での葬儀は遺骨無しのまま無宗教で行なわれたという。後に遺骨は大正13年(1924年1月に戻されている。

甘粕事件に憤激した大杉の同志の一部は、後年に震災時の関東戒厳司令官だった陸軍大将・福田雅太郎を狙撃しているがこの報復は失敗している。また、大杉を直接殺した甘粕は軍法会議懲役10年という軽い刑を受けているが、後にはそれさえ2年で出所して本土を離れ、満州事変に関わり、満州映画会社理事長として満州国形成に関わっているが、最期は非業の死を遂げている。甘粕が大杉を虐殺した背後関係については現在まで不明のままである。

死後50年が経過した昭和48年(1973年9月16日、大杉の命日静岡県静岡市で墓前祭が開催され、その際に大杉のかつての同志だった荒畑寒村は、その夜の講演の中で「大杉栄虐殺事件の真相は不明と言うほかはないが、(当時の甘粕が)一大尉の個人的な考えで殺されたものではなく、軍の意図によるものであった」と語っており、「大杉を認める者も認めない者も、この思想家を虐殺した軍を許すことはできない」と結んでいる。

大杉の死により、アナーキズム、社会主義、労働運動は急速に衰退してゆくことになった。

大杉の思想[編集]

大杉の思想は様々な思想家の影響が混在しており、思想的には明治・大正政府と、そして世界初の本格的な社会主義政権として成立したソ連の秩序と生涯を通じて対立している。大杉の思想とは旧体制を打破して新体制を生み出す政治革命であり、人類創世以来の秩序形成史に対する自立した個々人による精神革命であった。つまり、大杉の考えでは大正デモクラシーを唱えた吉野作造大山郁夫らも、所詮は天皇主権の現体制を前提として政治体制を改良する程度に過ぎないとして大杉はほとんど評価していなかった。

大杉は次のように語っている。

  • 「主人に喜ばれる、盲従する、崇拝する、これが全社会組織の暴力と恐怖の上に築かれた、原始時代から近代に至るまでの、殆んど唯一の大道徳律であった」
  • 「社会とか道徳とか国家とか称するものは(中略)生きたる人の血を吸ふ吸血鬼である(中略)一切の社会規範が断尽せられた時、残るものは只だ各個人の自我(中略)唯一者あるのみとなる」

著作[編集]

自叙伝[編集]

  • 『獄中記』 1919年
  • 『自叙傳』 1923年
  • 『日本脱出記』 1923年

翻訳[編集]

  • 『昆虫記』第1巻 1922年
  • クロポトキン『相互扶助論 進化の一要素』1924年

機関紙誌(大杉栄が編集・刊行に関与)[編集]

  • 『近代思想』
  • 『平民新聞』
  • 『文明批評』
  • 『労働運動』

(いずれも復刻版が刊行されている)

論文等[編集]

  • 『生の闘争』 1914年
  • 『社会的個人主義』 1915年発禁
  • 『労働運動の哲学』 1916年発禁
  • 『乞食の名誉』1920年伊藤野枝との共著
  • 『クロポトキン研究』 1920年
  • 『正義を求める心』 1921年
  • 『悪戯』1921年
  • 『二人の革命家』 1922年伊藤野枝との共著
  • 『漫文漫画』 1922年 望月桂との共著
  • 『無政府主義者の見たロシア革命』1922年

近藤憲二編集[編集]

  • 『随筆集生の闘争』1923年
  • 『日本脱出記』 1923年
  • 『自叙傳』 1923年
  • 『自由の先驅』 1924年
  • 『大杉栄全集』アルス版 1925年 - 1926年

同志の著作[編集]

  • 『死の懺悔』1926年 古田大次郎 春秋社
  • 『獄窓から』1930年 和田久太郎
  • 『死刑囚の思い出』 1930年発禁 古田大次郎

追悼号[編集]

  • 『改造』 1923年11月 大杉栄追想号
  • 『中央公論』 1923年11月「吾が回想する大杉」佐藤春夫
  • 『労働運動』1924年3月大杉栄・伊藤野枝追悼号
  • 『祖国と自由』 1925年9月 大杉栄追悼号

1960,70年代刊行著作、関連書[編集]

  • 『大杉栄全集』全14巻、現代思潮社
  • 大澤正道『大杉栄研究』、同成社、1968年7月
  • 秋山清『大杉栄評伝』、思想の科学社、1976年11月

1980年以降の出版[編集]

  • 『大杉栄訳 ファーブル昆虫記』(ジャン=アンリ ファーブル(著),小原秀雄(著),大杉栄(訳)、明石書店、2005年)
  • 『日録・大杉栄伝』(大杉豊、社会評論社、2009年)
  • 『日本脱出記』(大杉豊解説、土曜社、2011年)
  • 『自叙傳』(大杉豊解説、土曜社、2011年)
  • 『獄中記』(大杉豊解説、土曜社、2012年)
  • 『KAWADE道の手帖 大杉栄』(河出書房新社、2012年)
  • 『大杉栄と仲間たち』(ぱる出版、2013年)
  • 『新編 大杉栄追想』(大杉豊解説、土曜社、2013年)『改造』 1923年11月大杉栄追想号の復刊

大杉が登場する作品[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]