徐盛

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徐 盛(じょ せい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将文嚮(ぶんきょう)[1]。子は徐楷

生涯[編集]

徐州瑯邪郡の出身[1]。戦乱を避けて疎開していたが、度胸と義に厚いことを孫権から買われて別部司馬に任命され、柴桑県長となる[1]黄祖の息子・黄射が数千の軍勢で攻めて来た時にはわずか200余の兵で撃退する[1]。その功績により校尉に任命された[1]曹操との濡須の戦いでは横江で曹操軍と対峙したが、暴風雨のため孫権の駆逐艦が敵陣の岸に座礁し、他の武将たちは敵を恐れて船から出ようとしなかったが、徐盛の兵は船を出て突撃して曹操軍を敗走させ、孫権の水軍は帰還することができた[1]。以後、劉備との夷陵の戦い曹休との戦いで武功を立てて安東将軍に昇進する[1]224年黄初五年の対呉遠征では親征してきた文帝軍を相手に建業から数百里にわたって偽の城壁を造り、文帝を欺いて退却させた[1]。呉の黄武年間の末期頃に死去した[1]

蒋欽の部下を過去に罰しようとして孫権に止められた事があり、そのため徐盛は蒋欽に報復されることを恐れていたが、蒋欽は徐盛を高く評価してこだわらなかったため徐盛はその器量に敬服したという[2]

三国志演義』では第38回で孫権に招かれて初登場。濡須の戦いでは李典と戦い敵に包囲されて重傷を負うが周泰に救助される。文帝の親征では総司令官として迎え撃ち、史実通り偽城の計を使って撤退に追い込み、文帝にかつての赤壁の戦いに匹敵する大損害を与えている。第96回の曹休との石亭の戦いを最後に姿を消している。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 小出『三国志武将事典』P313
  2. 小出『三国志武将事典』P309

参考文献[編集]